「あ、すみません。髪の毛を直して、ついでに身支度もして参ります。普段は同居人が綺麗に整えてくれるのですが……」
密かに目配せで笑いあっていただけなのに――いや、祐樹的にはこういう日常の些細なことで微笑みを浮かべる心の余裕が最愛の人にも、そして忸怩たる思いを内心で押し隠した祐樹にも出来たことの方が嬉しかったが。
「森技官はそんなことまでするとは、正直意外です」
基本的に良い人なのはごく最近判明した事実だが、「人の手を煩わせるのが当然」といった感じで超然とした印象の方が強くて――そもそもが厚労省の出世頭とも評されているエリート様だし――何だか意外にも可愛い一面があるのだなと微笑ましく思った。
「手先は充分起用だし、完璧主義の感じもするので――血を見るのは絶対にダメそうだが――それ以外のことは嬉々としてしそうな気はする。特に最愛の呉先生のためなら」
完璧主義に関しては同意だし、呉先生のことをとても大切に想っていることも知っていたが。
「手先が器用って……ご覧になったことがあるのですか?」
呉先生と森技官との付き合いは祐樹の方が数日だけ長いものの、呉先生にだけ打ち明ける祐樹の「惚気話」に不定愁訴外来へ足を運んでいることは知っていたが、森技官とは道後温泉の医局の慰安旅行の達成のための交渉でしか二人きりで会ったことはないと聞いている。ただ、手慣れた感じで朝食の準備をする最愛の人の震えていない指を何とか病院まで保たせたくて、他愛のない話をしているだけという意図の方が大きくて、森技官と最愛の人が会っていても別に咎める積りもなかった。
それに最愛の人が――今度はいつになるかは全く分からないものの、気長に待つ積もりではいた――このしなやかな肢体を開くのは祐樹だけだということも良く分かっていたし。
「え?いつだったか、ケーキの食べ放題に行っただろう、四人で。
あの時祐樹はコーヒーのコーナーしか往復していなかったが、ケーキの横にセルフサービスのソフトクリームの機械が有って、呉先生が上手く渦巻き状とでも言うのか、とにかくソフトクリームの形に出来なくて、私が見兼ねて手を出そうとしたら森技官がソフトクリームをそこいらの店員さんよりもうまく作っていたので、器用なのだな……と」
そういえばそんなことも有ったような気がするが、祐樹は森技官との口喧嘩の方に注意が行ってしまっていたので、呉先生がどんなソフトクリームを食べていたのか記憶にない。
最愛の人がとても美味しそうに食べていたなら話は別だっただろうが。
「ソフトクリームといえば、医局のナースがコーンの代わりにラングドシャで包んだソフトクリームの店が有るとか言っていました。大阪らしいのですが、もし興味がお有りでしたらもう少し詳しく話を聞いておきますが?」
大根とかニンジンをリズミカルかつ繊細に包丁を動かしているその動きが愛おしい。
「ラングドシャとバニラは良く合いそうだな……。一度行ってみたい」
薄紅色の笑みを浮かべる最愛の人の瑞々しい生気に満ちた表情も。
「分かりました。店の場所とか名前を聞いておきますね。気が向いたらいつでも行けるように」
甘鯛は冬が旬らしいが、最愛の人が行きつけの魚屋さんでお勧めされたというだけのことはあって、とても美味しく出来上がっていた。
「ご馳走様でした。こんなに朝から本格的な和食を楽しむことが出来たのも、とても嬉しいです。あ、コーヒー淹れますね」
呉先生が手を合わせて――きっと京都の人間に相応しいように躾をきちんとされていたのだろう――食事終了の挨拶をしている。
食事中も他愛のない話で和やかに笑いあっていて、アイツの話は一切出なかったのも呉先生なりの配慮なのだろう。
「食後のお薬は服用しなくても大丈夫ですか?」
最愛の人は今は普段の怜悧で端正な表情だし指も震えていなかったが、病院に着いてからどうなるのか誰にも分らないので、不安要素は薬で抑えておいた方が良いだろうし、呉先生はケガの痛み止めの薬が切れかけている。
「ああ、一応お渡ししておきますね。眠くならない精神安定剤です。今は一つ服用して、上限は、教授の場合三錠までですね。
それ以上は服用を避けて下さい。私は痛み止めを飲んでから出勤します」
薬剤のシートごと、呉先生から最愛の人へと手渡された。紅の指が揺るぎない感じでシートを掴むのも嬉しさに弾んでしまう。
それにその薬剤は祐樹も二日前の夜に服用したが、それ以降は貰っていないので、血中濃度を保たなくても良い薬なのだろう。つまりは一時凌ぎの頓服薬といった扱いのようだった。
精神科の薬の中には二週間を目途に効いてくるという、気の長い――と祐樹などは不遜にも思ってしまう――時間が必要な薬も存在することを習った覚えがあったので。
呉先生が淹れてくれた極上のコーヒーを味わいながら飲んでいると、チャイム音が軽やかに鳴り響いた。
「今頃誰だろう?森技官かな……。出勤前の恋人の顔でも見に……」
コーヒーカップから紅色の指を最低限のしなやかな動きで離して、軽やかな感じで椅子から立ち上がって液晶の画面の横についているボタンを押している。
「香川様、お迎えのお車が参っておりますが」
玄関の受付嬢の涼やかで上品な訓練された声が室内に響く。
声の涼やかさという点では最愛の人の方が勝っていたが「迎えの車」とは一体何のことだろうかと怪訝さが募った。
「え?それはどちらからでしょうか?」
最愛の人も同じことを考えていたのか、涼やかな声に困惑の響きが混じっていた。
「京都大学病院長の公用車の運転手の方でいらっしゃいます。身分証と免許証も提示なさったので確かだと思います。
斎藤様からこちらにお迎えに行くようにと指示されたと仰っていますが?」
病院長の名前も合っているし、院長権限で公用車を使っていることも知っていた。
ただ、歩いて行った方が早いにも関わらず車を回してくれるとは。
「ああ、昨夜同居人が重大なクレームを入れたので、せめてもの罪滅ぼしの積りなのでしょう、腹黒タヌキの……。
戦闘モード全開の時の同居人の迫力は田中先生が一番良くご存知かと。あの調子で、いやもっとかもしれませんが……とにかく電話させたことだけは確かです。10倍返しの一環として」
呉先生がスミレ色の微笑みを浮かべながら何気に恐ろしいことを言ってのけた。
「病院まで外界を遮断出来るので、これは好意に甘えた方が良くはないですか?」
当惑と躊躇に揺れる眼差しの煌めきを受け止めて、力付けるように瞳の力を強いて輝かせながら。
「それはそうだな……。呉先生もご一緒に如何ですか?」
とんでもないと言わんばかりに華奢な首を横に振る呉先生の気持ちも良く分かった。
病院長公用車なんて――最愛の人の凱旋帰国の時ですら――滅多に使われないのが普通だし、それを病院の正面玄関に着けるという祐樹でも身に余る光栄としか思えないものを不定愁訴外来のブランチ長兼精神科講師が受け入れるとは到底思えない。斎藤病院長から直接誘われでもしない限り。
ただ、一介の医局員に過ぎない――Aiセンター長の肩書きは持っているが――祐樹も本来なら謝絶するべき場合だろうが、最愛の人に出来る限り付き添っていたかったので、乗車する覚悟だった。
「5分後に降りていくと運転手さんにお伝えください」
最愛の人が祐樹の意を汲んでくれたのか決然とした感じで受付嬢に告げている。
「早めに起きて正解だったな……。歩いて行った方が早いに決まっているが、せっかくの好意を無駄にしたくはないし……。それに森技官の電光石火の早業に報いるためにも」
クローゼットの前でシルクのネクタイを手早く結びながら最愛の人が祐樹に向かって笑みを浮かべた。
病院長という単語を聞いても指の震えが再発していないことに心の底から安堵しながら祐樹も手早く身支度を整えた。
「そうですね。病院長公用車なんて、一生に一度の経験かもしれないので――ああ、貴方が病院長に就任したらご相伴に与らせて貰えそうですが――二人の時間を楽しみましょう、ギリギリまで……」
密かに目配せで笑いあっていただけなのに――いや、祐樹的にはこういう日常の些細なことで微笑みを浮かべる心の余裕が最愛の人にも、そして忸怩たる思いを内心で押し隠した祐樹にも出来たことの方が嬉しかったが。
「森技官はそんなことまでするとは、正直意外です」
基本的に良い人なのはごく最近判明した事実だが、「人の手を煩わせるのが当然」といった感じで超然とした印象の方が強くて――そもそもが厚労省の出世頭とも評されているエリート様だし――何だか意外にも可愛い一面があるのだなと微笑ましく思った。
「手先は充分起用だし、完璧主義の感じもするので――血を見るのは絶対にダメそうだが――それ以外のことは嬉々としてしそうな気はする。特に最愛の呉先生のためなら」
完璧主義に関しては同意だし、呉先生のことをとても大切に想っていることも知っていたが。
「手先が器用って……ご覧になったことがあるのですか?」
呉先生と森技官との付き合いは祐樹の方が数日だけ長いものの、呉先生にだけ打ち明ける祐樹の「惚気話」に不定愁訴外来へ足を運んでいることは知っていたが、森技官とは道後温泉の医局の慰安旅行の達成のための交渉でしか二人きりで会ったことはないと聞いている。ただ、手慣れた感じで朝食の準備をする最愛の人の震えていない指を何とか病院まで保たせたくて、他愛のない話をしているだけという意図の方が大きくて、森技官と最愛の人が会っていても別に咎める積りもなかった。
それに最愛の人が――今度はいつになるかは全く分からないものの、気長に待つ積もりではいた――このしなやかな肢体を開くのは祐樹だけだということも良く分かっていたし。
「え?いつだったか、ケーキの食べ放題に行っただろう、四人で。
あの時祐樹はコーヒーのコーナーしか往復していなかったが、ケーキの横にセルフサービスのソフトクリームの機械が有って、呉先生が上手く渦巻き状とでも言うのか、とにかくソフトクリームの形に出来なくて、私が見兼ねて手を出そうとしたら森技官がソフトクリームをそこいらの店員さんよりもうまく作っていたので、器用なのだな……と」
そういえばそんなことも有ったような気がするが、祐樹は森技官との口喧嘩の方に注意が行ってしまっていたので、呉先生がどんなソフトクリームを食べていたのか記憶にない。
最愛の人がとても美味しそうに食べていたなら話は別だっただろうが。
「ソフトクリームといえば、医局のナースがコーンの代わりにラングドシャで包んだソフトクリームの店が有るとか言っていました。大阪らしいのですが、もし興味がお有りでしたらもう少し詳しく話を聞いておきますが?」
大根とかニンジンをリズミカルかつ繊細に包丁を動かしているその動きが愛おしい。
「ラングドシャとバニラは良く合いそうだな……。一度行ってみたい」
薄紅色の笑みを浮かべる最愛の人の瑞々しい生気に満ちた表情も。
「分かりました。店の場所とか名前を聞いておきますね。気が向いたらいつでも行けるように」
甘鯛は冬が旬らしいが、最愛の人が行きつけの魚屋さんでお勧めされたというだけのことはあって、とても美味しく出来上がっていた。
「ご馳走様でした。こんなに朝から本格的な和食を楽しむことが出来たのも、とても嬉しいです。あ、コーヒー淹れますね」
呉先生が手を合わせて――きっと京都の人間に相応しいように躾をきちんとされていたのだろう――食事終了の挨拶をしている。
食事中も他愛のない話で和やかに笑いあっていて、アイツの話は一切出なかったのも呉先生なりの配慮なのだろう。
「食後のお薬は服用しなくても大丈夫ですか?」
最愛の人は今は普段の怜悧で端正な表情だし指も震えていなかったが、病院に着いてからどうなるのか誰にも分らないので、不安要素は薬で抑えておいた方が良いだろうし、呉先生はケガの痛み止めの薬が切れかけている。
「ああ、一応お渡ししておきますね。眠くならない精神安定剤です。今は一つ服用して、上限は、教授の場合三錠までですね。
それ以上は服用を避けて下さい。私は痛み止めを飲んでから出勤します」
薬剤のシートごと、呉先生から最愛の人へと手渡された。紅の指が揺るぎない感じでシートを掴むのも嬉しさに弾んでしまう。
それにその薬剤は祐樹も二日前の夜に服用したが、それ以降は貰っていないので、血中濃度を保たなくても良い薬なのだろう。つまりは一時凌ぎの頓服薬といった扱いのようだった。
精神科の薬の中には二週間を目途に効いてくるという、気の長い――と祐樹などは不遜にも思ってしまう――時間が必要な薬も存在することを習った覚えがあったので。
呉先生が淹れてくれた極上のコーヒーを味わいながら飲んでいると、チャイム音が軽やかに鳴り響いた。
「今頃誰だろう?森技官かな……。出勤前の恋人の顔でも見に……」
コーヒーカップから紅色の指を最低限のしなやかな動きで離して、軽やかな感じで椅子から立ち上がって液晶の画面の横についているボタンを押している。
「香川様、お迎えのお車が参っておりますが」
玄関の受付嬢の涼やかで上品な訓練された声が室内に響く。
声の涼やかさという点では最愛の人の方が勝っていたが「迎えの車」とは一体何のことだろうかと怪訝さが募った。
「え?それはどちらからでしょうか?」
最愛の人も同じことを考えていたのか、涼やかな声に困惑の響きが混じっていた。
「京都大学病院長の公用車の運転手の方でいらっしゃいます。身分証と免許証も提示なさったので確かだと思います。
斎藤様からこちらにお迎えに行くようにと指示されたと仰っていますが?」
病院長の名前も合っているし、院長権限で公用車を使っていることも知っていた。
ただ、歩いて行った方が早いにも関わらず車を回してくれるとは。
「ああ、昨夜同居人が重大なクレームを入れたので、せめてもの罪滅ぼしの積りなのでしょう、腹黒タヌキの……。
戦闘モード全開の時の同居人の迫力は田中先生が一番良くご存知かと。あの調子で、いやもっとかもしれませんが……とにかく電話させたことだけは確かです。10倍返しの一環として」
呉先生がスミレ色の微笑みを浮かべながら何気に恐ろしいことを言ってのけた。
「病院まで外界を遮断出来るので、これは好意に甘えた方が良くはないですか?」
当惑と躊躇に揺れる眼差しの煌めきを受け止めて、力付けるように瞳の力を強いて輝かせながら。
「それはそうだな……。呉先生もご一緒に如何ですか?」
とんでもないと言わんばかりに華奢な首を横に振る呉先生の気持ちも良く分かった。
病院長公用車なんて――最愛の人の凱旋帰国の時ですら――滅多に使われないのが普通だし、それを病院の正面玄関に着けるという祐樹でも身に余る光栄としか思えないものを不定愁訴外来のブランチ長兼精神科講師が受け入れるとは到底思えない。斎藤病院長から直接誘われでもしない限り。
ただ、一介の医局員に過ぎない――Aiセンター長の肩書きは持っているが――祐樹も本来なら謝絶するべき場合だろうが、最愛の人に出来る限り付き添っていたかったので、乗車する覚悟だった。
「5分後に降りていくと運転手さんにお伝えください」
最愛の人が祐樹の意を汲んでくれたのか決然とした感じで受付嬢に告げている。
「早めに起きて正解だったな……。歩いて行った方が早いに決まっているが、せっかくの好意を無駄にしたくはないし……。それに森技官の電光石火の早業に報いるためにも」
クローゼットの前でシルクのネクタイを手早く結びながら最愛の人が祐樹に向かって笑みを浮かべた。
病院長という単語を聞いても指の震えが再発していないことに心の底から安堵しながら祐樹も手早く身支度を整えた。
「そうですね。病院長公用車なんて、一生に一度の経験かもしれないので――ああ、貴方が病院長に就任したらご相伴に与らせて貰えそうですが――二人の時間を楽しみましょう、ギリギリまで……」
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すみません、リアルで少しバタバタする事態になってしまったので、更新お約束出来ないのが申し訳ないです!!
最後まで読んで下さいまして有難う御座います。
こうやま みか拝