「祐樹が――もう、今日になってしまったが――業務に差し障りが出ないようなら金木犀の、ほの甘くてどこか懐かしい香りを胸いっぱいに吸い込みに行きたい……な。この時間ならば道を歩いている人もそうはいないだろうし、金木犀の香りもより濃厚だと思うし……。
ただ、無理はして欲しくないので……」
最愛の人の切れ長な目を見開いていて、願望と理性が鬩ぎ合っているような複雑な煌めきを放つ。
その光に魅入られながら慎重に考えた。
「……貴方が望むなら仰せの通りに黎明の散歩デートに参りましょうか。ただ、せっかく解した肩ですので冷えないように気を付けて……。そうですね未だ季節的には早いかも知れませんが、この時間なら新聞配達の人くらいしか居ないので平気かと思いますのでマフラーも巻いてから行くという条件が前提です」
先ほどのラベンダーの香りのように、精神をリフレッシュさせるのは良いだろう。特に最愛の人には不本意極まりなかった探偵役のことは。
向かい側に座った人が朝の生まれたての光が射し込んだような感じで煌めいていた。
「良いのか?祐樹は夜勤明けで疲れているのに申し訳ないけれども……でも嬉しい」
極上の笑みを浮かべた最愛の人の顔を見るだけで疲労感などは吹っ飛んでしまう。
「大丈夫ですよ。今夜の救急救命室は良い感じに時間を空けて患者さんが搬送されて来ましたし、さほど重傷の患者さんも居なかったのでむしろ楽でしたよ。適度に休めましたし。
いくら貴方の望みでも、野戦病院さながらの状態が一晩続いたとかだったらキッパリとお断り致しますのでどうかご安心ください」
微笑みながら告げると彼は安心したように頷いてすらりと立ち上がる。
コーヒーカップを下げてから着替えに行った。何だか弾むような足取りで。祐樹は帰宅して直ぐにキッチンに灯りが漏れているのを不審に思って覗いたせいで着替えていないのは好都合だった。救急救命室のシャワーを使った後に帰宅したし。
最愛の人を待つ間にスマホで日の出の時間を確かめた。まだ時間はあるので、金木犀の甘い香りを二人して楽しめるだろう。あの辺りに座る場所は有ったかなと記憶を辿っても出て来ない。立ったままでも楽しめるだろうが、深夜未明に二人して佇んでいたら最悪パトロール中の警官とかに職務質問されてもおかしくない。
まあ、いかにも善良な市民といった感じの髪型とか服装なのでスルーされるかも知れないけれども。
「本当だ。空気が澄み切っているな……。仮にも京都の市内だとは思えないほど……」
祐樹の隣を歩いている人が――祐樹の言った通りにマフラーを巻いている――弾む声を夜の静寂に控えめに振り撒いている。といっても、普段から大きな声を出す人でもない。
「釈迦に説法ですけれども……散歩は身体にも良いですし、腕を大きく振り回すと更に良いですよ」
自転車の灯りが見えたのでさり気なく距離を取った。
新聞を配達しているらしくてあちこちの家のポストと思しきところで停まって自転車にまたがったまま手際よく新聞と思しき紙の束を入れている。
「この心地いい気温と天気だからまだ良いだろうけれども、雨の日とか寒い日などは大変だろうな……」
最愛の人が感心したように呟いている。
「そうですね。仕事とはいえ出るのが嫌な日も有るでしょう……。ちなみに最も寒く感じるのは霙交じりの雨の日です。そういう日は病院から帰宅するのにちょっとした勇気が要りますね……。
貴方と同じ空間に居る時間を少しでも長くしたい気持ちの方が強いので家には帰りますけれども……」
自転車が近づいて来たのを良く見るとまだ若くて学生っぽい雰囲気を漂わせている。
「祐樹、そんなに無理をしなくても……。私だって朝食を祐樹と一緒に摂りたいのは山々なのだが、霙交じりの冷たい雨に打たれて祐樹が風邪を引くくらいなら、むしろ病院に居て貰った方が良い」
健気な声音に思わず笑みが深くなってしまう。その気持ちのままに最愛の人と手を繋いだ。
新聞配達の青年の自転車は背後に走り去っていた。あの感じだと後ろは振り向かないだろうから、付け根まで絡めて、街灯の灯りに照らされた最愛の人の端整で怜悧な眼差しと祐樹の視線まで絡ませた。
「大丈夫です。体調管理も仕事のウチですから。少しでも異変を感じたら風邪薬を服用して病院で休みます。幸いそんな状態になったことはないですけれど……。
風邪はともかくインフルやノロに罹ったら貴方にまで伝染してしまいかねないので、その点は充分に用心しています」
絡めた指に心地よい圧を感じる。
「そうか……それなら良いのだが。あ!」
確かこの辺で薫ってきたなと思ったのと同時に最愛の人が「あ!」と言っている。その瞬間に祐樹の嗅覚が甘く濃い香りで満たされて行く。
「この薫りもラベンダーと同じく心を落ち着かせてくれますよね……。それにリフレッシュ効果もあって良いですよね」
街灯は有るものの静謐な闇の中で人知れず薫る花を二人して呼吸と共に肺まで吸い込む。
「……リフレッシュと言えば……、あんな情念に塗れた事件に関わってしまったことを……貴方の秀逸過ぎる記憶力は存じていますが、せめて記憶の一番奥に封じ込めて、出来れば封印して下さればと思います。
人間の脳にリセット機能が付いていればもっと良いのですが……」
細い指を調節してはいるものの強く握った、祐樹の願いが最愛の人に届くようにと。
「有難う……。リセットは無理だが……。強い気持ち……私には祐樹に対する愛情しかないけれども……。ネガティブな強い感情は一生涯持ちたくないなと思ってしまった……それだけを覚えておいて、それ以外は記憶の奥底に封印しようと思う」
揺るぎない決意を秘めた感じの横顔を見て愛おしさに駆られてしまった。
「私への愛情は大歓迎ですけれども、少なくとも私は貴方にネガティブな感情を抱かせるようなことは一生涯致しません、よ?それはお約束します」
香りがより一層濃くなった。多分、樹の近くまで歩いて来たのだろう。
「祐樹のことは信じているけれども、そう言ってくれると更に嬉しいな」
絡めた指に力がこもって、そしてキスを強請るように目を閉じた白皙の顔が上を向いた。甘く懐かしい香りに包まれて唇を重ねた、約束と誓い、そして昏い記憶が封印されるようにとの願いを込めて。
街灯だけがそんな二人を照らしていた。
<了>
最後まで読んで頂き誠に有難うございました!!この話は「二人がどうして探偵役」の後日談となります。作中に出て来た名前で「誰?」となった読者様や、興味を持って下さった方は、
読んで下されば嬉しいです。
推理小説風を目指したのですが、推理小説って「犯人はお前だ」で終わりますよね。ただ、その後あの人はどうなったのか?とか分からないというのが個人的に嫌だったので、こうして蛇足をしてしまいました。
宿題の多い身ですけれど、気長にお待ち下さればと思います。
いつも遊びにいらして下さってとても嬉しいです。ご期待に沿える作品になっていることを祈るばかりです。
こうやま みか拝
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