「あの……『京大医学部附属病院で待っています』と書いて頂けますか。おこがましいようですが……」
 隣に座って聞き耳を立てていた祐樹が唇を皮肉な角度に上げて秘かな失笑の表情を浮かべているのも不思議といえば不思議だったが。ただ、祐樹だけが可能なこの口角の上げ方は笑みにしか見えないのも魅力の一つだったが。
 そんなことを躊躇っていたのかと内心で考えながら、どこか病気でも……と思って秀幸君へと視線を巡らせた。
「センセみたいにカッコいいお医者さんになるんだ!!」
 ああ、そういうことかと安堵しながら言われた通りに書いた後に「鈴木秀幸君へ」と記してもう慣れ切った手順のサインをしながら「他の皆様方は?」と聞いてみた。祐樹が苦笑を浮かべた理由も判明したことだし。このひな壇に並んで座っている件はともかく、自分達の母校が狭き門だと言われている上にそれなりの努力を――と言っても入ってからの方がもっと密度の濃い勉強をしたのも事実だった――払ってきたので、その努力や犠牲にした時間を考えるとお母様の悲願が叶うかどうかは全く分からないが。
 あの夏の公園で――ほんの二日間だけだったが――知り合った「教え子」達との邂逅も楽しみの一つだったので。
「私は家の都合で時間が合わなかったのでお先にお邪魔致しましたが、他の皆さんは――ほとんどが同じ文面をお願いすると申しておりましたけれども――午後からの書店へと、分散してお伺いする予定です。
 皆で一斉に押しかけたら却ってご迷惑かと思いまして……」
 この程度の文字なら数秒で書けるのだが、他の子供たちにもお礼をゆっくりと言いたかったので結果的にその方が助かるのも事実だった。
「なるほど、皆様にも宜しくとお伝えください。
 そしてあの節は大変お世話になっていながらもお礼を申し上げられなかったことのお詫びも。
 あの時は……諸般の事情がありまして……名前を明かせなかったことも申し訳ありませんでした」
 深く頭を下げかけると「とんでも御座いません」と遮られた。
「バイバイ、香川センセ!!また呉センセのお家に来たら教えてな!!」
 すっかりはしゃいだ感じの秀幸君が笑顔で手を振ってくれた。子供なりに場の空気を読んで潮時と判断したのだろう。確かに他の――ほぼ流れ作業の――人達よりも時間を取ってしまったが、この程度は大丈夫だろう。予想を上回る盛況振りのようだったが誘導などが円滑に運んだせいで時間も余っていることだし。
 秀幸君に手を振って挨拶を返す、自然な笑みを満面に浮かべながら。
「よ、香川教授、子供にまでモテるとは知っていたが。それ以上に、意外と懐かれるタイプだとは思わなかった」
 聞き覚えのある声が笑いを含んでいたが、一瞥して柏木先生だと分からなかったのは寝起きと思しきほぼ爆発状態の頭髪とラフな格好の――病院ではいつもキチンとしたスーツ姿だし髪も撫で付けられている――せいだった。横に佇んでいる奥さんも手術室で見かける時とは異なって、こちらは美容院だか自宅でだかは分からないものの髪の毛が綺麗に巻かれて垂れていて、その上見慣れた口紅だけの状態ではなくて――具体的にどう塗ったり巻いたりしているかは不明だ――ナチュラルな感じではあるがフルメイクアップを施していたからだった。
 結婚式の時にはもっと派手な感じで塗っていたので、化粧という文字の中に「化ける」が入っていることを実感する思いだった。
「来てくれたのか、有難う」
 昨夜は救急救命室勤務だったと頭の中の勤務シフトで確認した。時間的に家に帰って仮眠を取っていた時に奥さんにたたき起こされたのだろうと、髪型やまだ眠そうな表情、そして一つ屋根の下で生活している夫婦とは思えない――と言っても世の中の夫婦の私生活がどうなっているかはドラマの中でしか知らなかった――服装のバラバラさ加減から判断して笑いを浮かべてしまう。
「すごい胡蝶蘭だな……。ウワサには聞いていたものの」
 ウワサ?そういう話が出回っていたのは全く知らないが、医局長というポジションは病院内の人脈も広めだし――といっても祐樹の方がさらに詳しくそういう人脈作りに励んでいるのは知っていたが、この一連の流れの渦に巻き込まれたせいもあって情報収集の時間が取れていないのだろう――色々な話も入ってくるポジションではある。
 詳しく聞こうと思う前に、柏木先生が姿勢を正してお辞儀をしたので機会を逸してしまったが。
「香川教授、そして田中先生この度はおめでとう御座います。医局の先駆けとしてご挨拶に参上致しました。なお黒木は医局に残って万が一に備えております。また、次の書店では医局員が結集してお待ち致しております。以上ご挨拶と報告を終わります。
 良かった、間に合って。ギリギリセーフで駆け込んで来た、実は」
 手術室所属の奥さんの――基本的に手術は土日が休みなので彼女も休みである可能性は高い――勤務シフトは全然知らないが自分の医局員の分は全部頭に入っている。なので、次の書店で誰が待っているのかも大体は分かって暖かい感謝の笑みが浮かんだ。
「それはお疲れ様でした。せっかくの休みの日に申し訳なかったな、却って……」
 個人的な感想としてはそう言ってしまったが、病院長命令には誰も逆らえないのも良く知っている。
「いや、医局長としては当然だし、その上香川教授は同期の誉れだからなおさらな」
 本を差し出したのでもう条件反射のようになってしまったサインをした。
「いつも本当に有難う。柏木先生が医局に居てくれて、そして束ねをしてくれて本当に助かっています」
 柏木先生と奥さんを交互に見ながら笑みを浮かべた。
「いえ、至りませんで。もうどんどん遠慮なくこき使ってください。
 それはそうと、こちらの『私・専・用・保・存・版』には『大好きな』と書いて頂ければとても有難いです。家宝に致しますので」
 柏木先生がたしなめるように腕を掴んだ。
「何よ、私が友人知人親戚一同はもちろんのこと、小学校から短大までの同級生名簿まで引っ張り出して連絡を取って周知徹底を図っていたことは貴方だって知っているでしょ。
 それに財布の紐の固い専業主婦に収まっちゃっている人にはボーナスで買おうと思っていたシャネルの新作バッグまで犠牲にして本代に遣ったのよ。その間貴方は寝てばかりいたじゃない?
 と、いうことで宜しくお願い致します」
 お酒を呑むと人格が変わる教授とか、運転席では人が変わる人の存在は知っていたが、女性の場合はお化粧でも変わるのだろうか。
 勢いに押された感じで言う通りの文字を記した。
 隣で必死に笑いを堪えている祐樹は――同性には神経質だが――異性には寛大なのでこの程度のことでは何も思わないだろうという確信が有ったので。











 
【お詫び】
 リアル生活が多忙を極めておりまして、不定期更新になります。
 更新を気長にお待ち下さると幸いです。
 本当に申し訳ありません。
 お休みしてしまって申し訳ありませんでした。なるべく毎日更新したいのですが、なかなか時間が取れずにいます……。
 目指せ!二話更新なのですが、一話も更新出来ずに終わる可能性も……。
 なるべく頑張りますので気長にお付き合い下されば嬉しいです。
 




        こうやま みか拝