高木氏との会話を続けながら、嬉しい意味の汗に濡れた手をハンカチで拭った。自分にとっては「努力して得たモノ」の方が重要だったので、生来備わっている手にはさして関心を抱いていなかったものの祐樹が褒めてくれる――愛する人間の贔屓目のフィルターがかかっているのかも知れない――指をしげしげと眺めてしまった。
 そう言えば、祐樹に自分の携帯電話の番号を決死の思いで渡した時には、今のような暖かい感情からではなく本当に冷たい汗と、心許ない手の震えを必死で押し隠していたと――隠し切れていないことは知っていたが――その当時の不安さに比べると、祐樹との関係が永遠に続くと信仰心に近い確信を持たせてくれた祐樹には感謝の気持ちしかない。
 あの時のことを思えば信じられないほどの心境の変化だったが、一方的な愛情ではなくて確かに受け止めてくれる祐樹というかけがえのない最高の恋人が居てくれるからこそなのだろう。そう思うと心の中に暖かな暖炉のオレンジの灯が灯ったようになって自然と笑みを浮かべてしまっている自分を自覚して更に幸せ色に心が満たされる。
 太陽の光りに似た祐樹の雰囲気に一目惚れをして以来、そして決死の思いで帰国して以来の信じられない僥倖とか祐樹と過ごした日々――そしてそれがこれからも一生続くという揺るぎない確信も相俟って――まさに太陽のような幸せ感がこの身を包んでいる。
 恒星である以上は太陽だって寿命は有るだろうが、それこそ「天文学的」な数字だし自分の生きている限りは祐樹の太陽の光りに似たオーラをふんだんに浴びせかけて貰えるのと同じように太陽の光りも不変だと思うと何だかそれだけで生まれて来た甲斐が有るような気がする。
 祐樹の傍で永遠を感じることが出来る自分の一生はこの上もなく幸せな一生に違いないので。
 祐樹との折鶴勝負のために用意したオレンジ色の和紙が朝の太陽の光りを彷彿とさせる色で一際鮮やかな色を放っているのを視界の隅で眺めて電話を切った。
 以前は呼び出しがない限り執務室から医局を経由して帰宅することはなかったが今では出来る限り顔を出すようにしているので帰り支度を済ませて執務室を出た。
 容態急変の患者さんが居た場合には黒木准教授とか他の主治医から連絡が漏れなく入ることになっているのでその点は気にしていなかったものの、やはり人心掌握という点では触れ合う機会が多い方が良いことは内田教授の行動を見ていると何となく分かったので。
 医局のドアをスライドする前に覗き込むとあいにく祐樹は席を外していた。自分よりも遥かに多忙なので予想はしていたものの一瞬でも長く祐樹の男らしく端整な容貌とか均整の取れた身体を見ていたかったので内心で落胆のため息を零しながら取っ手に手をかけた。
 室内では久米先生が泣きそうな顔で攝子と鉗子とコピー用紙と格闘していて、それを厳しい顔で時計と久米先生を交互に見ている柏木先生の真剣な表情を微笑ましく見ていると背後から肩を軽く叩かれた。
 病院内でそんな親しげな動作を――しかも自分の医局の前で――してくる人間は一人しか心当たりはないので期待を込めて振り返った。自然と笑みが深くなりながら。
「お疲れ様です、田中先生」
 定時少し過ぎとはいえ、まだまだ人の気配も多い時間帯ということもあり人目を気にして控え目に微笑をしたものの、祐樹はかなり驚いた感じの表情を浮かべているのが予想外だったが。
「今上がりですか?特に報告すべき患者さんはいらっしゃいませんね。その点は黒木准教授からもお聞きになっているとは存じますが」
 祐樹も余所行きの表情に戻った感じで丁寧な一礼の後にそう言葉を発してくれた。
「それは何よりだが……。久米先生の仕上がり具合はどんな感じか気になってしまって」
 白河教授の脳外科が――まあ実際に出場するのは精神科の清水研修医だが――勝つと決まっているいわば出来レースなので個人的には清水研修医があっさりと買ってくれても良かったのだが、医局の威信を殊更重要視してくれている祐樹を始めとする医局員のことも考えると迂闊なことも言えないし、言ってはならない立場なことも弁えている。
「ああ、まだまだですね……」
 祐樹が勝気そうに整った眉を僅かに顰めている。確かに、清水研修医に比べると若干遅いような気はする。しかも自分が教えた後も独りで練習に励んでいるそうなので尚更差は開いているだろうし。
「それはそうと、手術控室の件だが使用許可は取りつけて来た。ええと、例の件で……」
 どんな格好をしていても凛々しさと躍動的な雰囲気は醸し出している太陽のような存在の恋人だが、医局員として病室回りをして来たのだろう、白衣姿は殊更男らしさと頼もしさが際立っていて思わず見惚れてしまっていたが。
「ああ、その件ですか……。場所変えましょうか?打ち合わせをしないとならない件ですよね……」
 殊更打ち合わせが必要だとも思わなかったが、二人きりになれる機会は逸したくなかったのも事実なので唇が弛んでしまう。
 白衣の裾を颯爽と翻して足早に歩み始めた祐樹の後を薔薇色に弾む気持ちと足取りで追いかけると、魅惑的な角度を描いた甘い唇が極上の笑いを浮かべつつ足を止めて長身を斜めに翻す様子も映画の一シーンのような鮮やかな輝きを纏っている。
 白衣姿も執刀経験を積んだせいなのか、神憑り的手技を発揮した時のように実際の長身よりも大きく見えるのは自信の現れだろうが、よりいっそうの輝きに満ちている最愛の恋人を何よりも誇らしく見てしまう。
 旧態依然のヒエラルキーが息づいている病院内の廊下なだけに自分が先頭に立つわけにはいかないと判断してくれたのだろうが。
「原稿は読んだ。私が読んでも素晴らしい出来だったし……高木氏も直すべきところはないと激賞してくれたな」
 職員用の門ではなくて祐樹が見つけた――独りになりたい時に使っている祐樹の隠れ家が病院の外に何か所か有ることは知っていた――小さな小路に入ってから肩を並べて歩きながらこの上ない幸せな気持ちで斜め上を見上げた。
「ああ、他ならぬ貴方ならどう考えて行動するかを想像して書く程度のことは私には簡単なことですので……。私という不安要素というか、安否確認の必要がない、例えばたまたま同じ場所、例えばマンションとかに一緒に居たとしても貴方は病院へと向かったでしょうから。医師としての使命感に燃えた貴方だからこそ更に好きになったのですが。
 そうですか……そんなに褒められていましたか……。それは良かったです。本が売れれば売れるほど斉藤病院長の評価も更に上がるでしょうし、私も他の業務を一時停止して原稿を書いた甲斐が有ります」
 病院内では原則吸えないタバコに火を点けながら笑みを深くした祐樹が驚いた感じを再現して自分だけを見ているのも不審といえば不審だったが。
「祐樹がそんなふうに見てくれているのは単純に嬉しいし、その上原稿にして貰えたら更に美化されたようで殊更喜ばしくて……。あの時はそんな職業的使命感めいたものは微塵も抱いていなかったのだが……」
 思いつくままに言葉を唇へと載せた、称賛の眼差しと笑みと共に。
 そんな自分を何故か眩しそうに見つめている祐樹が、極上の笑みを浮かべた唇を開いた。紫煙と共に紡がれた言葉は正直意外過ぎて目を見開いてしまったが。





 リアバタに拍車がかかってしまいまして、出来る時にしか更新出来ませんが倒れない程度には頑張りたいと思いますので何卒ご理解頂けますようにお願い致します。
 
 最後まで読んでくださって有り難うございます。



        こうやま みか拝