「では、お先に行って参ります。ロックの方法は分かりますよね?」
伊達に二日間をこのマンションで過ごしたわけでない呉先生は自信に満ちた表情で頷いている。
「もう一杯コーヒーを飲んでから私も出勤しますが、病院に着くのは私の方が早いかもですね……。行ってらっしゃい」
キッチンの椅子に座ったままなのは少しでも長く二人きりにさせるための配慮だろう。これが最愛の人の精神的な状態が予断を許さないものであれば、呉先生も絶対に診について来ただろうから。
手を深くまで絡めて廊下を並んで歩くのは普段通りで、そして玄関のドアの前で軽く口づけを交わした。
今のところ指は普段と変わりなくて心の底から安心したが、病院に着いた時とか、患者さんを目の前にした時にはどうなるかは未だ分からない。
「お迎えの黒いお車は、玄関先に停まっております。お出になれば直ぐに分かります。今のところは一台しか停まっておりませんので。
では香川様、田中様行ってらっしゃいませ」
受付嬢が良く訓練された感じの落ち着いた声と営業用の笑みで見送ってくれた。
「行って参ります」
普段通り怜悧かつ端整な表情と涼しげな声だ。そしてさり気なく重ねた手の甲からも震えは伝わって来ない。
「香川教授、田中先生お早うございます。斉藤病院長の指示でお迎えに参上致しました」
初老の運転手は白手袋をはめた手でドアを開けてくれる。胸に名刺の大きさの職員証を付けていて、確かに大学病院のロゴが入っていたのは確かめた。
「お早うございます。ご苦労様です」
最愛の人が会釈を返して車へとしなやかで機敏な感じで乗り込んだ。万事が派手好みの斉藤病院長だが、病院長公用車は国産と決められていると専らのウワサで、それを証明するかのように内装こそは特別誂えだったが、車自体はクラウンだった。
「へえ、自動車電話も付いているのか……」
珍しそうに涼やかな目を見開いて革張りの車内のあちこちを見ていた最愛の人がふと気付いたように「震えていない」指でスイッチを押すとミラーガラスと思しき仕切りが運転手さんと二人を完全に遮った。
「病院長は本当に外部に漏れてはならない密談の時にこの車を使うと聞いているので、防音性も保証済みだ。
それに窓ガラスも――本当は違法だとか聞いたことはあるが――こちらからは見えても道からは見えない仕組みになっているらしい」
案の定朝の渋滞に巻き込まれた――といっても普段よりだいぶ早く出て来たので出勤時間には間に合うだろうが――車の中で座る距離を縮めて、お互いの身体がぴったりと寄り添うような形に変えて最愛の人の右手を両手で優しく覆った。
「未だ」震えていない指がこの先も震えないようにと心の底から祈りを込めて両手に念めいた力を送り込む、気休め程度にしかならないことも充分承知の上だったが。
「祐樹……もう少しこのままで……」
最愛の人の頭が祐樹の肩に載せられて気持ちの良い重みとシトラス系の薫りが匂いやかな肌から淡く漂ってくる。
「ええ、貴方が安らげるのであればいくらでも……。それにこの手には太陽のオーラを充分籠めておきますが、万が一日蝕のように陰ってしまったら、それは全て私の責任ですので、私が貴方の手の代わりをします。
あくまで万が一ですが」
肩に載った重みが不意に消えたかと思うと最愛の人の前髪も普段の出勤時と同じように上げた怜悧で理知的な容貌が大輪の瑞々しい花のような笑みを浮かべて唇へと近づいてきた。
「太陽のオーラを分けて欲しい。
それに、祐樹の愛情とか優しさや根気強さなどはこの二日間、私をずっと励ましてくれているのは感じていたし、その御礼も兼ねて……」
慎ましやかで触れるかどうかがギリギリな感じの接吻では何だか足りないような気がして強く唇を押し当てた。ただし、淡い紅色に艶めく唇の色は変えないように入念に注意を払ったが。
「祐樹、本当に有難う。そして」
唇を僅かに離して言葉を紡いでいた最愛の人が言い淀む感じで言葉を切った。
「そして?」
聞き返している間にどんどんと見覚えのある正面玄関が近付いてきた。
名残惜しそうな感じで密着した身体を「普通」の距離を取って座り直す最愛の人の右手だけはずっと両手で貴重品――実際に最愛の人の指は貴重過ぎて値段も付けられないだろうが――を愛でるようにそっと動かしながら愛情と生気を注ぎ込むように撫で続けていた。
今の祐樹にはこれ以外の方法はないような気がして。
診察が始まる時間にはタクシーとか患者さんを送って来ただけの車も停めることが許されるスペースだったが、今の時間は病院長公用車しか停められないと聞いたことがある。
そのウワサの正しさを証明するかのように正面玄関前には車の姿はなかった。
ちなみに自動車通勤組も多いが、そういう人は職員用の駐車スペースが別に設けられているのでそちらに停めている。
正面玄関の外側で――斉藤病院長が直々に公用車を出させたということはどんな出迎えを受けるのかは分かったものではないし、それが却って最愛の人の心の傷を抉ることにならないかと内心危惧していたが――白衣のまま人待ち顔といった感じで佇んでいたのは黒木准教授ただ一人だった。
運転手がドアを開けてくれると、黒木准教授――この二日の激務を物語るかのように疲労感を隠し切れていない。その点心はともかく身体は充分休めた自分達の方が月曜日の朝に相応しい生気に満ちている――が安堵した感じで笑みを浮かべた。
「お帰りなさい、香川教授。病院長が合わす顔がないので医局の皆で出迎えて欲しいと仰ったのですが、それでは大袈裟になってしまうと判断して私が代表して出迎える役目を。
田中先生もお疲れ様でした」
真の関係を知らない黒木准教授は「教授の懐刀」とあだ名を奉られたし、プライベートでも仲が良いというウワサ――意図的に祐樹が流した――だけしか情報源がないのだろう。
「いえ、ご心配とご足労をお掛けしまして誠に申し訳ない気持ちです。え?執務室には寄らないのですか?」
黒木准教授の決して長いとは言えない足は手術室へと向かっているようだった。
「手術前カンファレンスは先程独断で行い無事に終了しました。
当然執刀医でもある教授と第一助手の田中先生とも共有するべき内容です。
斉藤病院長から教授用手術控室の入出許可を頂きましたので、教授には私から、そして田中先生は柏木先生から責任を持って伝えます」
外科医らしいテキパキとした口調ながらも温和さが滲み出ているのは黒木准教授の人徳の賜物だろうが、並んで歩きながらも気遣わしそうな視線を最愛の人の右手に向けているのもはっきりと分かってしまう。
ただ、今のところ手の震えは出ていないし、それにこのまま――鞄の中かスーツの中に呉先生から貰った薬が入っているだろうから――の状態で手術控室に行けるのは幸いなことに違いはない。
「医局の束ねもして頂いた上に、こんな気遣いまで……。本当に有難う御座います」
最愛の人が年上の部下でもある黒木准教授に深く頭を下げた。
「いえ、こちらこそ至りませんで……。
田中先生、あらかたの話は柏木先生から聞きましたが……、今後このようなレベルの話であれば、私の耳にも絶対に入れて下さい。
まあ、未曾有の事態ですので今後などないと信じていますが」
蚊帳の外――意図したわけではなかったが――に置いてしまった己の未熟さを恥じた。病院長に直訴は考えた――そして沖縄に出張中という体たらくだったが――ものの、黒木准教授に対しても済まない気持ちでいっぱいになる。
「はい。今後このようなことがない前提ではありますが、万が一の時には必ず。
申し訳ありませんでした」
深く頭を下げた。医局の皆も心配で堪らなかっただろうが、連絡――遠藤先生暴発の危険という電話は貰ったが――もして来ずに皆が自分の出来ることを頑張ってくれていたのは黒木准教授の疲労が滲み出ている表情からも充分に察することが出来て自然と頭が下がってしまう。
伊達に二日間をこのマンションで過ごしたわけでない呉先生は自信に満ちた表情で頷いている。
「もう一杯コーヒーを飲んでから私も出勤しますが、病院に着くのは私の方が早いかもですね……。行ってらっしゃい」
キッチンの椅子に座ったままなのは少しでも長く二人きりにさせるための配慮だろう。これが最愛の人の精神的な状態が予断を許さないものであれば、呉先生も絶対に診について来ただろうから。
手を深くまで絡めて廊下を並んで歩くのは普段通りで、そして玄関のドアの前で軽く口づけを交わした。
今のところ指は普段と変わりなくて心の底から安心したが、病院に着いた時とか、患者さんを目の前にした時にはどうなるかは未だ分からない。
「お迎えの黒いお車は、玄関先に停まっております。お出になれば直ぐに分かります。今のところは一台しか停まっておりませんので。
では香川様、田中様行ってらっしゃいませ」
受付嬢が良く訓練された感じの落ち着いた声と営業用の笑みで見送ってくれた。
「行って参ります」
普段通り怜悧かつ端整な表情と涼しげな声だ。そしてさり気なく重ねた手の甲からも震えは伝わって来ない。
「香川教授、田中先生お早うございます。斉藤病院長の指示でお迎えに参上致しました」
初老の運転手は白手袋をはめた手でドアを開けてくれる。胸に名刺の大きさの職員証を付けていて、確かに大学病院のロゴが入っていたのは確かめた。
「お早うございます。ご苦労様です」
最愛の人が会釈を返して車へとしなやかで機敏な感じで乗り込んだ。万事が派手好みの斉藤病院長だが、病院長公用車は国産と決められていると専らのウワサで、それを証明するかのように内装こそは特別誂えだったが、車自体はクラウンだった。
「へえ、自動車電話も付いているのか……」
珍しそうに涼やかな目を見開いて革張りの車内のあちこちを見ていた最愛の人がふと気付いたように「震えていない」指でスイッチを押すとミラーガラスと思しき仕切りが運転手さんと二人を完全に遮った。
「病院長は本当に外部に漏れてはならない密談の時にこの車を使うと聞いているので、防音性も保証済みだ。
それに窓ガラスも――本当は違法だとか聞いたことはあるが――こちらからは見えても道からは見えない仕組みになっているらしい」
案の定朝の渋滞に巻き込まれた――といっても普段よりだいぶ早く出て来たので出勤時間には間に合うだろうが――車の中で座る距離を縮めて、お互いの身体がぴったりと寄り添うような形に変えて最愛の人の右手を両手で優しく覆った。
「未だ」震えていない指がこの先も震えないようにと心の底から祈りを込めて両手に念めいた力を送り込む、気休め程度にしかならないことも充分承知の上だったが。
「祐樹……もう少しこのままで……」
最愛の人の頭が祐樹の肩に載せられて気持ちの良い重みとシトラス系の薫りが匂いやかな肌から淡く漂ってくる。
「ええ、貴方が安らげるのであればいくらでも……。それにこの手には太陽のオーラを充分籠めておきますが、万が一日蝕のように陰ってしまったら、それは全て私の責任ですので、私が貴方の手の代わりをします。
あくまで万が一ですが」
肩に載った重みが不意に消えたかと思うと最愛の人の前髪も普段の出勤時と同じように上げた怜悧で理知的な容貌が大輪の瑞々しい花のような笑みを浮かべて唇へと近づいてきた。
「太陽のオーラを分けて欲しい。
それに、祐樹の愛情とか優しさや根気強さなどはこの二日間、私をずっと励ましてくれているのは感じていたし、その御礼も兼ねて……」
慎ましやかで触れるかどうかがギリギリな感じの接吻では何だか足りないような気がして強く唇を押し当てた。ただし、淡い紅色に艶めく唇の色は変えないように入念に注意を払ったが。
「祐樹、本当に有難う。そして」
唇を僅かに離して言葉を紡いでいた最愛の人が言い淀む感じで言葉を切った。
「そして?」
聞き返している間にどんどんと見覚えのある正面玄関が近付いてきた。
名残惜しそうな感じで密着した身体を「普通」の距離を取って座り直す最愛の人の右手だけはずっと両手で貴重品――実際に最愛の人の指は貴重過ぎて値段も付けられないだろうが――を愛でるようにそっと動かしながら愛情と生気を注ぎ込むように撫で続けていた。
今の祐樹にはこれ以外の方法はないような気がして。
診察が始まる時間にはタクシーとか患者さんを送って来ただけの車も停めることが許されるスペースだったが、今の時間は病院長公用車しか停められないと聞いたことがある。
そのウワサの正しさを証明するかのように正面玄関前には車の姿はなかった。
ちなみに自動車通勤組も多いが、そういう人は職員用の駐車スペースが別に設けられているのでそちらに停めている。
正面玄関の外側で――斉藤病院長が直々に公用車を出させたということはどんな出迎えを受けるのかは分かったものではないし、それが却って最愛の人の心の傷を抉ることにならないかと内心危惧していたが――白衣のまま人待ち顔といった感じで佇んでいたのは黒木准教授ただ一人だった。
運転手がドアを開けてくれると、黒木准教授――この二日の激務を物語るかのように疲労感を隠し切れていない。その点心はともかく身体は充分休めた自分達の方が月曜日の朝に相応しい生気に満ちている――が安堵した感じで笑みを浮かべた。
「お帰りなさい、香川教授。病院長が合わす顔がないので医局の皆で出迎えて欲しいと仰ったのですが、それでは大袈裟になってしまうと判断して私が代表して出迎える役目を。
田中先生もお疲れ様でした」
真の関係を知らない黒木准教授は「教授の懐刀」とあだ名を奉られたし、プライベートでも仲が良いというウワサ――意図的に祐樹が流した――だけしか情報源がないのだろう。
「いえ、ご心配とご足労をお掛けしまして誠に申し訳ない気持ちです。え?執務室には寄らないのですか?」
黒木准教授の決して長いとは言えない足は手術室へと向かっているようだった。
「手術前カンファレンスは先程独断で行い無事に終了しました。
当然執刀医でもある教授と第一助手の田中先生とも共有するべき内容です。
斉藤病院長から教授用手術控室の入出許可を頂きましたので、教授には私から、そして田中先生は柏木先生から責任を持って伝えます」
外科医らしいテキパキとした口調ながらも温和さが滲み出ているのは黒木准教授の人徳の賜物だろうが、並んで歩きながらも気遣わしそうな視線を最愛の人の右手に向けているのもはっきりと分かってしまう。
ただ、今のところ手の震えは出ていないし、それにこのまま――鞄の中かスーツの中に呉先生から貰った薬が入っているだろうから――の状態で手術控室に行けるのは幸いなことに違いはない。
「医局の束ねもして頂いた上に、こんな気遣いまで……。本当に有難う御座います」
最愛の人が年上の部下でもある黒木准教授に深く頭を下げた。
「いえ、こちらこそ至りませんで……。
田中先生、あらかたの話は柏木先生から聞きましたが……、今後このようなレベルの話であれば、私の耳にも絶対に入れて下さい。
まあ、未曾有の事態ですので今後などないと信じていますが」
蚊帳の外――意図したわけではなかったが――に置いてしまった己の未熟さを恥じた。病院長に直訴は考えた――そして沖縄に出張中という体たらくだったが――ものの、黒木准教授に対しても済まない気持ちでいっぱいになる。
「はい。今後このようなことがない前提ではありますが、万が一の時には必ず。
申し訳ありませんでした」
深く頭を下げた。医局の皆も心配で堪らなかっただろうが、連絡――遠藤先生暴発の危険という電話は貰ったが――もして来ずに皆が自分の出来ることを頑張ってくれていたのは黒木准教授の疲労が滲み出ている表情からも充分に察することが出来て自然と頭が下がってしまう。
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すみません、リアルで少しバタバタする事態になってしまったので、更新お約束出来ないのが申し訳ないです!!
最後まで読んで下さいまして有難う御座います。
こうやま みか拝