「また始まった」
 呉先生がぼそりと漏らした。諦めと愛情が絶妙なバランスで同居した、乾いた呟きだった。しかし、それ以上何かを言うことなく、呉先生は無言で森技官に視線を向けていた。祐樹もつられて視線を向ける。
 森技官が言う「備考欄」には、最愛の人の達筆が静かに息づいている。彼らしい几帳面さと端整さが重なった文字列は、内容以上にその存在自体が一種の品格を宿していた。森技官が今もなお高々と掲げているのは、たかがA4の紙一枚だ。だが、彼の手にかかるとそれはまるで大英博物館にでも寄贈されそうな貴重資料のように扱われるらしい。
 アルマーニのスーツを愛用し――しかも悔しいことにアルマーニを着るに相応しい恵まれた体型と苦み走った男らしい顔だ、そして階下にはコンシェルジュが控えているマンションのキッチンで堂々と紙芝居めいた芝居を打つその姿は、もはや「ブルジョワ道化」という新ジャンルに片足を突っ込んでいた。今日の森技官は羞恥心と理性のブレーキをどこかに置き忘れてきたらしい。
 まあ、「劇的登場こそが今日の役目」と本気で信じている森技官に、常識で突っ込むのはむしろ無粋だ。ついさっきも、このキッチンでアジ演説の再現みたいなことをしていたが、結果、ものの見事にスベった。聞いていた三人が空気ごとフリーズするという、なかなかの大惨事だったのに、それでもこうして再登板してくる胆力……それだけは評価に値する。A4の紙に記されたエクセルの表、その内容もさることながら、多分森技官が一番見せたかったのは、「香川教授直筆」の備考欄に並ぶ完璧すぎる文字列なのだろう。いや、単なるコピー用紙ではなく、もはや舞台衣装の一部なのかもしれない。祐樹は笑う代わりにそっと息を吐いた。
 森技官は「火気・水濡れ厳禁」と言っていたが、仮に燃やしたとしても内容は秀逸過ぎる記憶力を持つ最愛の人が既に暗記済みのはずなので問題はないと祐樹は思ってしまった。
「やっぱり、梶原先生以外は、真殿教授寄りなんだな……」
 呉先生はスミレの青色のようなため息混じりの声だった。きっと、心ある医師は真殿教授に逆らって系列病院に飛ばされてしまった結果だろう。これではパターナリズムからの脱却は出来ないと森技官が判断するのも尤もだ。
「清水研修医が、真殿教授の『ご尊顔』に日々晒されながら、それでも辞表を叩きつけてご立派なご実家にお戻りにならないのは――」
 そこまで言って、森技官は手に持った紙をまるで法廷証拠でも示すかのように、さらに高々と宙に掲げた。最愛の人は空になった食器を下げて洗いながら森技官に全く反応を示さない。何だか最愛の人の日常的な姿と、森技官の落差が物凄い。
「――呉『教授』を、待っているからでしょう!」
 声に抑揚がありすぎて、一瞬キッチンの空気が舞台照明の光に包まれたような錯覚すら覚えた。指し示すような所作、視線の溜め、わざとらしい()。これはもはや分析ではなく独演会だった。……祐樹は最愛の人の凛とした背中のしなやかな動きに視線を固定した。ここで笑えば、森技官のモチベーションが粉々に砕け散ってしまうかもしれない。しかし、「ご尊顔」と「辞表」のコンボがすでにだいぶ危ない。
 清水研修医が実家に帰らない理由は森技官の推測した理由もあるだろうが、本音は外科を専攻した兄のせいで消去法の結果、精神科を選ばざるを得なかった。しかし、例の地震で「あの」香川教授に外科医としてのポテンシャルの高さを認められたと清水病院長が狂喜乱舞したせいだ。本音は救急救命室で腕を磨いて外科医として実家に帰り、兄を見返したいという思いがあると以前祐樹は本人から聞いたことがあった。精神科と救急救命医を極めた上で実家に戻るというのが清水研修医の野望で病院を辞めていないというのが実情だ。
 そして、話題の中心にいるはずの呉先生はというと、さっきから森技官の方を見もせず、なぜか背筋を伸ばしてコーヒーカップを両手で包み込むように持ったまま、微動だにしていない。たぶん、内心では反論を構築しているか、言葉にする価値がないと判断してフリーズしているかのどちらかだ。祐樹はその顔を見て、「あ、完全に魂が離れている」と思った。
「すみません」
 祐樹は何とかこの場の空気を「独演会」から「研究会」に戻そうと、口を挟んだ。
「この紙、持ち出しは厳禁とのことですが……、清水研修医にだけ見せていいですか?」
 最愛の人はその祐樹の言葉で静かに振り向いた。そして、「清水研修医は信頼できる」という眼差しを、言葉の代わりに祐樹へと送ってきた。静謐なダイヤモンドを彷彿とさせるその視線が祐樹の眼差しと絡み合った。
 森技官は一瞬何かを言い返すかのように口を開きかけたが、次の瞬間「仕方ありませんね」とでも言いたげにアルマーニに包まれた肩をすくめ、芝居がかったため息をひとつ落とした。そして、ややオーバーな動作で大きく頷く。まるで舞台のラストで「この扉を開けるのは貴方です」と鍵を渡す老魔法使い――いやその役をやたらと絵になる顔で演じてしまう、中村トオルばりのイケメンときたものだ。……どうして、頷くだけでそこまで芝居になるのか。祐樹は思わず眉をひそめたが、ここで突っ込めば森技官の芝居の舞台に上がるだけだと割り切り、何の変哲もないA4のコピー用紙を受け取った。





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