四個の洋菓子は既に食べてしまっている。呉先生は最愛の人よりも華奢な身体なのにどこに収まったのだろうか?まあ、洋菓子効果で呉先生の決意がさらに固まったなら祐樹としては喜ばしいのでスルーしよう。
「――新しいかどうかまでは分からないですよ。ただ、その看護師が初めて持って病院に来たと判断なさったら、『Aさんがそのバッグを持っているのは初めて見る。似合っているね』でいいと思います。Aさんがブランドを誇示するタイプなら『これはロエベです。このブランドは』など、勝手に話してくれますよ。それを聞いているだけでいいと思います。ただ二回以上同じことを聞いてしまうのは逆効果です。呉先生、いえ呉教授がバッグに興味を持ってくれたというだけで看護師としては嬉しいと思いますよ」
 呉先生は微かに首を傾げている。
「私達がドイツのベルリンから帰国した時に関西空港まで出迎えにいらしてくださいましたよね?」
 呉先生との出会った頃の話だ。最愛の人が外科医の(ひのき)舞台ともいえる国際公開手術に成功し、ある意味では、凱旋帰国ともいえるタイミングで呉先生は森技官を強引に引き連れて出迎えてくれた。名前だけ借りたとはいえ、最愛の人の手術ミスというとんでもない画像を作った謝罪をしに来てくれた。
「はい?そうですけど」
 まだピンと来ていない呉先生は戸惑ったスミレの花といった感じだった。
「あの時、呉先生の挨拶を受けた最愛の人が『二度お目にかかっています』と訂正したでしょう?その時呉先生は朝日を浴びたスミレの花のように微笑んで、そして恥ずかしそうになさっていましたよね?」
 祐樹の話の意図にやっと気づいたのだろう。
「ああそうでした。スミレの花か、ぺんぺん草かは主観で分かれると思いますが、あんなに病院内でも有名な教授が、私ごときを覚えてくださったことに感激しました。でもそれは、香川教授だからですよね?」
 不定愁訴外来というささやかな呉先生の城を守っているので医局の感覚が薄れたのかもしれない。ちなみに不定愁訴外来は大学病院設立時の建物でもある旧館にある。由緒と威厳のある建築物だが使い勝手が悪いので心臓外科など主な科は新館に集中している。先ほど、森技官が盛大にスベったアジ演説、あれは東大だけではなくてウチの大学でも盛んだったと聞いている。そして呉先生と話すために旧館を訪れ、廊下を歩んで祐樹の目に映った「ヘルメット・ゲバ棒禁止」という張り紙だった。化石のようにへばり付いていたその「禁止」という文字に歴史を感じたものだった。わざわざそんな張り紙を当時は提示しなければならないほど、実行している学生がいたのだろうなと。「禁止」の注意書きは「存在」と同義語だ。実在しないものは、禁止されることすらないのだから。その張り紙を呉先生は見ていないのだろうかと素朴な疑問を抱いたが、これ以上森技官の心の傷をえぐることはしたくないのでスルーしよう。
「看護師にとって教授は、ざっくり言うと、空港の時の呉先生と私の恋人と同じような距離感です。だからこそ、バッグの話題でも話しかけると心の距離が近くなります。庶民的な教授を目指すならば『知らないので教えてほしい』という態度がいいと思います」
 森技官が、キッチンに入ってきたのはその瞬間だった。右手にはA4の紙を高々と掲げ、アルマーニがこよなく似合う肩をわずかに反らせたその構えは、まるで歴史的発見でも発表する学会プレゼンターか、「勝訴」とだけ書かれた紙を掲げる弁護士のようだった。
「ご注目くださーい。本日の特別資料、精神科医局の思想配置マップでございます」
 抑揚のついた声が、キッチンの空気を軽く揺らす。彼の芝居がかった登場は、恋人の呉先生に大道芸人呼ばわりされたことへの復権の烽火(のろし)のつもりかもしれないなと内心呆れた。しかし、さきほどあれだけ派手にスベったにもかかわらず、また懲りもせず、再び「舞台」に立とうとする胆力には、むしろ敬意すら抱いてしまう。
 しかし、真に迫力を持っていたのは、その背後に佇んでいた最愛の人だった。彼は静謐な空気をまとっていた。その姿には言葉よりも雄弁な静けさがあった。彼は森技官の喧騒を咎めるでも、肯定するでもなく……ただ、認めているといった雰囲気だった。彼の涼やかな視線が祐樹と交差した。わずかに顎を引く、その仕草は「真面目な話だ」の合図だと分かるのは、祐樹が彼の一挙手一投足を常に見ている恋人だからだ。
 そして森技官はといえば、キッチンの照明をまるでスポットライトのように浴びながら、紙をパタンと折りたたく仕草さえ舞台仕立てでやってのけた。
「香川教授直筆、きわめて精緻な内部資料でございます。なお、備考欄は手書きでの運用となっておりますので、火気・水濡れ厳禁です」
 真面目な話が始まるはずなのに、もうすでに劇が始まっている。祐樹はそんなふうに思いながら、最愛の人のカップに静かにコーヒーを注ぎ足した。




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