「平たく言うと『責められることが有る』配偶者のことだな。それ以外にもDVやモラルハラスメントを行っている人間も有責配偶者だ。ちなみに有責配偶者からの離婚請求は原則として言い出せないことになっている」
不倫やDVを仕出かした人が離婚を言い出す権利などないような気がする。しかし、原則ということは例外もあるのだろう。祐樹の知る限り卓越した脳の容量を誇っている最愛の人と比較するとキャパシティーに問題があることも自覚しているので詳しく聞いても忘れてしまうだろう。ただ、知識の宮殿のような彼は点と点は簡単にアウトプット出来るが、散らばった点を結び合わせる能力に関しては祐樹の方が優れていると自負していた。要は二人の秀でた箇所を補い合っていくことこそが大切だと思っている。
「杉田弁護士に電話をしてみますね。この件の責任者は私ですから、貴方は私の話の不足分を補って頂ければ助かります」
スマホを取り出しながら彼が頷いてくれたのを確認し指紋認証でロックを解除した。自宅にいる間はロック機能など全く必要のない機能だ。最愛の人も祐樹も恋人のスマホを覗き見る必要性は毛ほども感じていない。深く信頼しあっていると実感している仲だと確信しあっているので、お互いに見られて疚しいことは全くないのだから。しかし、プライバシーの概念が無いに等しい救急救命室の休憩室などでロック機能は必須だ。そんなことを考えながらタップした。
「ご無沙汰しています。京都大学付属病院の田中です。今お時間宜しいですか?」
杉田弁護士は祐樹の声と所属先は当然知っている。それでもこう名乗ったのは「業務」で掛けているとのメッセージを込めた積りだった。
『田中先生久しぶりだね。優秀な救急救命医として元気で働いているのは家内から聞いているよ』
呑気な声が返ってきた。ドラマの中の弁護士は自信に満ちた声を張り上げているイメージだが、何となく杉田弁護士は厳粛な法廷でも同じような言動を取っているような気がした。裁判の傍聴に行ったことはなかったが。
「お恥ずかしい話なのですが……実はウチの医局内部の人間が勤務時間中に密会している不埒な人間が居まして」
別に隠すことではないのでスピーカーフォンにしている。落ち着いた設えのリビングルームに心底可笑しそうな笑い声が響き渡った。
『不倫かい?まさか香川教授が田中先生を裏切って……』
何だか肩を揺らして笑っている感じだ。最愛の人が驚いたように切れ長の目を真ん丸にしている。「鳩が豆鉄砲を食ったような」という表現が相応しい。祐樹も最愛の人のこんな表情は初めて見たが、その顔つきは二歳年下の祐樹よりも遥かに若い感じが新鮮だった。
「……まさか、私達は生涯に亘ったパートナーの誓いを交わしていますから浮気などあり得ませんよ」
思わず声が大きくなってしまった。まあ杉田弁護士も本気で言っているわけでは無いとは思っていたが。
『田中先生は今自宅のマンションに居るのだろう?病院のアナウンスや救急車のサイレンの音、そして人の気配が全くしないので』
ゲイバー「グレイス」で祐樹が良く聞いた飄々とした声に戻っている。
「その通りです」
別に隠すことではないので正直に自己申告した。再び物凄く可笑しそうな声がスマホから流れてきた。
『そもそも香川教授と田中先生は法的に何も関係ないだろう。敢えて冷酷に言わせて貰えれば単なる同居人だ。違うかね?』
同性婚を条例で認める地方自治体も有るが、特に不自由もないので二人で話し合って国や地方自治体に認められなくても良いという結論に至った。唯一危惧していた点はどちらかが病気や事故でどこかの病院に救急搬送されて危篤状態になった時に会えないのではないかという点だった。しかし、最愛の人ほどではないが祐樹も医師としての認知度は全国レベルだ。だからその病院の病院長に頼みこんでICUに入室を許可されるほどの我が儘が効くようになった。
「違いません……」
くつくつと笑う声が如何にも悪戯っ子のようだ。
『いくら熱烈に愛し合っているとはいえ婚姻関係にないお二人に不倫なんて出来るわけがないだろう?それはそうとこの時間に電話してくると言うことは単なる世間話をするのが目的ではなくて、仕事絡みかな?』
……結局のところ杉田弁護士の掌の上で遊ばれていたのだと判断して最愛の人と苦い笑みを交わした。
「そうです。ウチの医局員と恐らく看護師が香川外科唯一の内科医の長岡先生が使用している薬品保管室で密会をしている痕跡を確認しました。医療用のユニフォームを着用しないと入ることが出来ない場所にありますので相手は看護師に違いないでしょう。当事者の一人が配偶者の居る場合、または当事者の二人ともに配偶者が……という事態も想定内です。長岡先生は少なくとも二回目の密会が有ったと言っていました。彼女の婚約者は、」
長岡先生のことについて、なおも説明を続けようとした祐樹だったが、意外な声がスマホから聞こえてきた。
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