「麻酔医の大切さは良く知っていました。アメリカ時代は当たり前の一手術に一人の麻酔医だったのですが、日本ではそうでないと聞いていたので……私は日本の大学病院に招聘された身の上です。ですから多少の我が儘が効いて専属の麻酔医を指名出来たのですが、あくまで少数派だと思います。アメリカで麻酔医の重要さを知っていましたから……。しかし、日本の外科医はそこまで考えているとは、どうしても思うことが出来ないのも事実です。田中先生も執刀医になってからは専属の麻酔医を付けていますよね?」
普段から真面目な人だけれども真剣さ度合いがマックスのような表情だった。また疑問形で聞かれたが、本音は確認だろうと容易に察することが出来た。
「はい、その通りです。しかし、今日の公開手術ではスタンリー先生にお任せして……こう申しては僭越ですが。ストレスが全くなくて大変助かりました。筋弛緩剤の投与も気管挿管も私がこうして欲しいという前に既に行って下さいまして本当に助かりました」
シャンパンを零さないように注意しながら深々と頭を下げた。麻酔医は麻酔のみをしているイメージがあるけれども手技ではメスがなかなか入らない場合も多々ある。そういう時には筋弛緩剤投与と同時に、筋弛緩剤は全ての筋肉に効いてしまうので患者さんは呼吸が出来なくなる。だから人工呼吸が必要となるが、気管挿管という手技が必要となる。先ほど聞いたスタンレー先生はきっとこの挿管が神業的に得意なのだろう。
「麻酔医の遣り甲斐を充分に享受している私から日本の医師に何かアドバイスは出来ないだろうか……。何だか独楽鼠のように働かされている日本の麻酔医が気の毒になってしまった……」
祐樹も大賛成だし、最愛の人も満足そうな笑みを浮かべている。
「私の所属する大学病院では香川教授に続いて私までもが麻酔科の優秀な医師を専属にしています。もちろん香川教授が先陣を切るという形でしたので、単なる我が儘だと思われたのですが……。麻酔科で『ものすごく気が楽になった。本当に香川教授様様だ!』と喧伝したらしく他の外科の執刀医にも麻酔科の教授が頼み込みに行っていて、最終的には1手術1名を目指すらしいです。しかし、他の大学病院は旧態依然のようですね。根本的な待遇改善はまだまだ先のことになるでしょう……」
祐樹が最愛の人がレセプション用に見立てて贈ってくれたスーツに包まれた肩を竦めた。
「日本の場合、一介の医師では望むべくもない高収入を提示して募集が掛かった事例もありますね。要は高年俸で釣って働かせようというのが病院側の目論見だと勘ぐってしまいました」
言葉を紡ぎ終わるとシャンパンをごく薄い紅色の唇を花のように開いて呑んでいる。
「高収入で釣る……か……」
スタンレー先生は何だか考えに耽っているような感じだった。
「適切な言葉が見つからないのだが、高収入でも遣り甲斐の有る仕事とは言えないような気がする。何らかの事情でお金に困っていたら本人は嬉々として仕事に取り組めるだろうが」
バーキング看護師は我関せずとシャンパンのお代わりをしつつウエイターさんが運んできたカナッペに飽き足らないのか壁側に並んだ料理を皿いっぱいに運んできて旺盛な食欲を見せている。
「遣り甲斐……確かにそうですね