「外科医としても上司としても尊敬する香川教授さえ宜しければもう少し勝利の美酒を分かち合いたいです!!」
最愛の人に表向きの本音を口にしながら眼差しでは「愛する貴方と一緒に祝いたいです」とのサインを送った。そして、そのアイコンタクトが通じたのか彼も煌めく笑みを瞳に宿して薄紅色の唇に満開の薔薇のような微笑みを浮かべてくれている。
ウエイターが捧げ持っているボトルの金色のラベルには「ルイ・ロデレーヌ クリスタル 2008」と書いてある。フランス語なので読み方には自信がないのだが。
「このシャンパンはロシヤ皇帝のために作られた逸品だよ。しかも世紀のグレイト・ビンテージ2008年モノだ」
スタンリー先生が得意そうに解説してくれている。グレイト・ビンテージというのが良く分からないけれども「当たり年」というほどの意味だろう、多分。最愛の人を含む人の輪にフルートグラスが渡されて、ウエイターが細心の注意を払っているのが分かる手つきで注いでいく。泡の多さと細かさが確かに祐樹の見慣れているシャンパンとは異なるような気がする。
「『チーム・セイブ』の祝宴の場所が決まりましたのよ。なんでも京都で最高の歴史と格式を誇るお店とか。芸者さんの着物や髪飾りがとても楽しみですわ」
スタンリー先生にバーキング看護師が嬉しそうに告げている。
「その店の名前は何ていうのかな?」
スタンリー先生も満面の笑みを浮かべながら祐樹に聞いてきた。
「『一力亭』と言います。尤も私は店の前を通り過ぎたことは幾度となくありますが、紹介者が居なければ入店出来ないシステムですので入ったことはありませんが……」
スタンリー先生は更に上機嫌になったようだ。
「そこの店は是非とも行ってみたかったのだよ!それが叶うとは……!!」
ミラー先生も目を丸くしている。
「スタンリー先生も憧れの名店なのですか?『ラストサムライ』のモデルになった西郷隆盛という歴史上の偉人も訪れたお店というのはとても興味があります。そういうお店に足を踏み入れることが出来るとは感激です」
ミラー先生の脳裏にはカッコ良い俳優が浮かんでいるのだろうが、実際の西郷隆盛はでっぷりと太った人だ。良いように表現すれば貫禄のある人といったところだろう。ただ余計なことを言って夢を壊すのは無粋というものだろうなと黙っておくことにする。
「芸者さんの着物、とても楽しみですわ」
バーキング看護師は頬に手を当てている。
「ま、『チーム・セイブの祝宴』の前祝いというところかな?とにかく田中先生の成功を祝して乾杯!!」
皆で掲げたフルートグラスが金色の煌めきが会場をより一層煌びやかな空間に変えていくような気がした。祐樹の隣でグラスを持っている最愛の人の左手の薬指に着けたダイヤモンドの清浄な光も薄紅色の細く長い指に良く似合って神々しい感じだった。祐樹の国際公開手術の成功を切実に祈念してくれていた人だけに喜びもひとしおなのだろう。祐樹だって嬉しいことは嬉しいけれども、これからは「国際公開手術の成功者」というレッテルが付いて回るのだと思うと身の引き締まる思いというか、空恐ろしさを感じてしまっている。最愛の人ならば平気なのかも知れないが祐樹などは「まだまだ」という自己分析をしてしまっているので。
「有難うございます。皆様の協力で成功したと心の底から思っています」
シャンパンを呑むと柑橘類が含まれているのか爽やかな口当たりだった。スタンリー先生ほどの人が厳選したシャンパンだけあってとても美味だった。まあ、気持ちの昂ぶりとか精神状態が影響しているのかも知れないのだけれども。
「そうそう、日本の厚労省の森氏というのは田中先生の友達なのかね?」
キャビアのカナッペを頬張りながらスタンリー先生が興味深そうに聞いてきた。
「……はい。そうですが。ただ、香川教授との方がより親しいかと思います」
祐樹と森技官は「仲の良い喧嘩友達」という表現が最も適切だろう。掛け値なしの友達と表現するには何かが異なるような気がする。
「そうか……。日本では麻酔医不足で困っているらしいな……」
最愛の人や祐樹も「人の命を救いたい」という気持ちで医師になった。そういう志望動機の人間が圧倒的だろうけれども、麻酔医は患者さんに感謝されることのない裏方仕事だ。しかもその上大学病院では三件の手術を一人の麻酔医がこなすというのが「普通」だ。最愛の人は凱旋帰国に当たっての条件として麻酔医を専属で付けるということも提示して斎藤病院長の許可を取り付けていた。祐樹も執刀医になった時には同じようにしてもらっていた。やはり専属でないとミスも起こりやすくなるので。医師として日の当たらない点と三手術を掛け持ちしなければならないというストレスで成り手がいないのが現状だ。某病院が破格の年収二千万円で麻酔医の求人を出したこともあるくらいだ。
「そうですね。遣り甲斐がないとか報われないとかいうのが理由だと思います。我々外科医は患者さんが退院の時に感謝されますが麻酔医は手術の時にも患者さんに紹介することさえ稀ですから」
最愛の人が綺麗な眉を憂鬱そうに寄せて話している。
「矢張りそうなのか……。麻酔医は手術を裏でコントロール出来るのでとても面白いと思っているのだがね