……バーキング看護師がサラッとアンダー・クラスと言ったことは聞き流した(ほう)が良さそうだ。
 随分と見下した表現だけれども大英帝国時代からそれほど意識は変わっていない人も居るのだろう。
 アンダー・クラスは労働者階級よりも更に下だ。掘っ立て小屋で暮らすのは良い暮らしで、ホームレスや売春婦などが多かったらしい。
 日本では掘っ立て小屋小屋に等しい長屋に住んでいても寺子屋で文字を習うのが江戸時代では当たり前だったので上手下手は問わないならば俳句(ポエム)は80%の人間が詠めたハズだ。
「具体的にはハイクとという短文詩が最も有名ですが、自然の何気ない風景を鮮やかに詠んだモノです。
 代表的なモノに『古池や 蛙とび込む 水の音』というのが有りますね」
 英訳した物を暗記して来て良かったと思って披露する。
「蛙が古い池に入っただけですか?」
 バーキング看護師が何だかバカにした感じの表情を浮かべている。先ほどの差別(レイ)主義者(シスト)的な発言も大英帝国の驕りが垣間見えて良い気持ちがしなかった。
 しかし、道具出しという役目は一秒でもタイミングがずれると執刀医のパフォーマンスが著しく悪くなる。
 最愛の人も凱旋帰国後の医局トラブルの時に買収された道具出しの看護師にワザとタイミングをランダムにされるという妨害を受けていて精神的な消耗が激しかった、彼でさえ、だ。
 まさか国際公開手術の手術スタッフに選ばれるほどの腕を持つ人がそんな(こす)い真似をするとは思えないが、機嫌を損ねるわけにはいかない。
 執刀医というのは一応主役だけれども、それは皆に気を遣ってそれぞれの最高の能力を引き出させるという陰の努力も必要となる。
「それは美意識の違いでしょうね。ヨーロッパには人知とは自然に対抗して建物を建てたり庭を造作したりしますよね。
 例えば噴水です。重力に逆らって水を使っていますよね。
 しかし、日本では自然(ナチュラル)との一体化を図るのが理想だという美意識です。古めかしい京都などでは未だに有りますが、美しい山や滝を自分の家の庭に取り込で一体化させるという建て方をしていますね」
 最愛の人と泊まった御所などはまさにその通りだったのを懐かしく想い出した。
 その夜の祐樹は知る由もなかったが、最愛の人は祐樹がロンドンの国際公開手術の術者になることを知っていて、それとなくあれこれと教えてくれたことが活きている。
 彼のさり気ない優しさに惚れ直す思いだった。
「人工の物を良しとするのがヨーロッパ風ですか……。それに反して日本では自然に近くするのが理想的なのですね」
 スタンリー先生が医師らしく簡潔に纏めてくれた、とても興味深そうに。
 日本とヨーロッパの美意識の相違点については大学入試で散々読まされてきた。あの時は単に高得点を取るためとしか認識していなかったけれども、今は出題者の意図が日本の文化を他国の人間に広めるような人間に育って欲しいという期待が込められていたのだとハッキリ分かった。
「そうですね。しかし、現代の東京などではそのような古来の日本の美意識ではなくて、人工のモノを良しとする価値観に変わっています。
 ちなみに『古池や』の俳句(ハイク)の主役は昔からずっとそこにあったと思われる池で。その池に蛙が飛び込んで一瞬の躍動的な変化が起きた。
 その一瞬をカメラのように切り取ったとされていますね。
 カメラマンがベストショットを撮るために何日も掛けるように自然と向き合った結果生まれてきた俳句です。
 英語に訳されているので分かりにくいのですが、日本語だと強調のための仕掛けが施されていて、ある一定の教育を受けた人なら分かる仕組みになっています」
 具体的には「や・かな・けり・こそ」が仕組みだけれどもそういうことは言わなくて良いだろう。
「そうなのですか!それは実に興味深いです。香川教授もそういうお話しをちらっとされていましたね」
 サラッとスタンリー先生が祐樹に爆弾発言をしてきた。
「え?ベルリンでも麻酔医として参加なさったのですか?」
 LA時代かも知れないが、教授(プロフェッサー)という呼称を付けて呼んでいる点でベルリンのことの可能性が高い。スタンリー先生は悪戯っぽい笑顔を浮かべている。そして部屋に居るスタッフも半数が同じような好意的な笑みを浮かべている。
 スタッフも厳選される国際公開手術だと聞いているので、半数が生え抜きのベテランなのだろう。
「そうです。あの時も素晴らしい手技を拝見出来ましたが……、こういった日本とヨーロッパのことは、さほど話せなくて残念に思っていました……。
 ベルリンのレセプション会場で田中先生のことを紹介されていましたので、今度こそはと、実は手ぐすねを引いていたのですよ。
 卓越した手技は勿論のこと指導力も眼力もお持ちでいらっしゃる香川教授は素晴らしい人ですね……」
 今はかなり改善しているが、彼の場合どこか人を寄せ付けない雰囲気を纏っている。そして本人も人間関係構築能力の低さを自覚していた。
 もしかしたら色々と事前に祐樹にレクチャーしてくれたのも、ベルリンでスタッフと必要最低限のことしか話せなかったという悔いが残っていたのかも知れない。
「はい、素晴らしいです。上司としても人間としても」
 笑顔で断言してから良いことを思い付いた。
「皆さんの自費というのが心苦しいのですが、この手術の祝賀会を京都で行いませんか?」
 一体感を出して士気を上げるのも執刀医の務めだ。
「まあ、素敵!ゲイシャガールのダンスが楽しみだわ」
 バーキング看護師の声が弾けるように室内に響いた。そしてスタンリー先生を始めとしたスタッフが満面の笑みや拍手で祐樹に呼応している。
「では、手術の手順を説明致します」
 笑顔を消して真剣な表情を浮かべた。スタッフとの心の距離を充分に縮めたと判断して話題を切り替えた。




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