「ところで、貴方のパスポートの色、茶色でしたよね?あれは一体……」
祐樹は何だか人の耳を憚るような雰囲気だった。
日本人、いや東洋人らしき人はこのホテルのベルサイユ宮殿もかくやと思われる廊下には居ないというのに……。
言語的な問題ではなくて、何か自分が後ろめたいことをしているのではないかと疑っているのかも知れないなと思うと何だか可笑しい。
病院内、特に患者さんに聞かせたくない時は小声の祐樹だが、それ以外は明朗快活というか張りのある声なので何だか新鮮な想いだった。
「ああ、森技官に頼んだのだ。茶色のパスポートは外交官用らしい」
祐樹にやっと種明かしが出来ると思うと嬉しい。
祐樹の顔を見上げると心の底から驚いたように輝いて、しかも目を瞠っている。
優し気にそして自分を包み込むような眼差しはデートの時に良く見慣れていて、それはそれで天国にいるような気持ちだ。
しかし、目敏い祐樹を驚かすことは中々自分に出来ないのでそういう表情を浮かべさせることが出来たのは少し嬉しい。
「何故外交官なのですか?」
祐樹の黒曜石のような目が興味津々といった感じに輝いている。
今、フランスの貴族しか歩くことを許されない、ベルサイユ宮殿の廊下めいた場所で告げても良いかなと思った。
しかし、祐樹が世界一美味しいと言ってくれたコーヒーを運んで来た現物を見せたいという気持ちの方が勝っている。
「それは……。部屋に入ったら分かるので、少し待っていてくれないか?」
多分、祐樹は喜んでくれるだろう。その時のことを思えば自然と微笑してしまった。
祐樹が性格的に嫌いそうな手編みのマフラーですら喜んでくれたのだから、普段から褒めてくれるコーヒーは言うまでもない気がする。
「部屋はすぐそこですよ。あのドアです」
祐樹が気を取り直したような表情で長くて男らしい指で示してくれた。
「そうなのか……」
明日外科医としての正念場に立つ祐樹がホテルの客室で二人きりになった後で愛の行為をするかどうか先に聞いておいた方が良いと先ほど考えていたが……実際に口に出すのは何だか躊躇してしまう。
しかし、部屋に入ってお誘いが有るかどうか悶々とするくらいなら先に聞いておくに越したことはないと意を決した。
「祐樹、部屋に入る前に確かめておきたい……」
祐樹は立ち止まって自分と視線を絡ませてくれた。
「何ですか……?
絶対にロンドンでは会えないと思っていたのに来て下さった感謝を込めて何でも仰って下さい」
輝く眼差しが自分だけに注がれている幸せを噛みしめた。
「祐樹とホテルの部屋に入ると、その……必ず……することがあるだろう……?」
愛の行為自体には慣れて来たものの、祐樹の誘いが先だった。
性的な言葉を口にするのは、行為中はともかく服を着て廊下で佇んでいる時には途方もなく勇気が要る。
先ほどから考えてきた言葉は頭から飛んでしまって、しどろもどろにしか言えない自分が情けない。
ただ、祐樹と行ってきた過去の行為が想起されて頬が紅くなるのを自覚した。
「ああ、愛の交歓のことですか?」
個室で二人きりの時に祐樹が発する言葉を直截的に言われて更に頬が熱くなった。
「今夜は、そのう……する、のか……?」
ああ、やっと聞くことが出来たという安堵感と誰もいないとはいえ廊下という公共の場で、あからさまなことを言い合う羞恥心で何だか居た堪れない。
祐樹は羞恥心を抱いていない感じだったけれども、何だか不思議そうな表情を男らしく整った顔に浮かべている。
「したくないといえば嘘になりますけれども、今夜、悦楽に耽ってしまえば何だか現実逃避をしているみたいで……。
出来れば、したくないです……。
明日、レセプション会場から二人して出た後の楽しみとして取っておきたいですね……」
祐樹の輝く眼差しには一点の曇りもない揺るぎなさを感じる。
それに、愛の行為は精神的に満たされるものの体力は確実に消耗する。
祐樹が言うことも尤もだ、何しろ明日は祐樹にとって外科医として世界的に認知される登龍門なのだから。
それはともかく、これであれこれ気に病むことはない。そもそもネガティブ思考に陥りやすい自分なので先に聞いていて本当に良かった。
「分かった。先に聞いていなければ……色々考えてしまうと思うので……」
恋人の間に隠し事をしてはならないと祐樹も言っていたので正直な気持ちを吐露した。
祐樹が黒曜石の瞳に優し気な光を宿している。
「手を繋ぐとか唇へのキスはしたいと思っています」
祐樹の唇も愛おしそうな笑みを浮かべている。
そして、二人の身体が一つに混じり合うかのような愛の行為も大好きだけれども、指を絡めて祐樹の精神的な温かさが伝わってくる感触も、見た目よりも物凄く柔らかい祐樹の唇を自分の唇で確かめる行為も自分にとっては宝石よりも貴重で煌めく時間だ。
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2024年04月
「え?普段は薬を使用していない貴方が飲む薬剤を調べないわけがないでしょう?」
外科医としては線の細い身体の持ち主だけれども、風邪を始めとして病気らしい病気に罹ったことはない人だ。
彼本人が手術に差し障りのないように細心の注意を払っているせいもあるけれども、免疫力や体力が人並み以上なのだろう。
肩凝りからくる頭痛薬くらいしか祐樹の記憶に残っている服用歴はない。
厳密には狂気の脳外科の研修医が起こした「夏の事件」などで、呉先生から処方された薬を飲んだ過去はあるものの。
「私は貴方や呉先生ほど精神科の知識はありませんが、ネットで検索したら分かりますよね、精神安定剤とか、そういうざっくりとした知識ですが。
もちろん呉先生のように患者様に処方出来るほどのレベルには絶対にならないでしょう。
しかし、ある程度は専門外の私にだって分かりますよ?」
最愛の人が珍しく唖然としたような表情を浮かべている。何だか冬に間違えて咲いてしまった大輪の薔薇の風情だ。
呉先生も華奢な肩を僅かに震わせていて、その恋人の森技官はごくごく平静な表情だ。
森技官は最愛の人に対しては、恋人ほどのレベルではないものの庇護欲めいたものを垣間見せている。
呉先生と同じレベルでないのは関係性に因るものだろうと祐樹は判断している。恋人と、自分の株を上げてくれる人という相違だろう。
尤も森技官がそういう厚意を抱いているのは祐樹最愛の人が性格上大層好ましいからだろうが。
同じような失言めいたものを祐樹が発すれば容赦なく毒舌の刃で心を抉りにかかってくるだろう。
まあ、生理的に無理な手技を見なければならなかったという後遺症から万全の精神状態ではないために普段の辛辣な言葉を吐く余裕を無くしているだけかも知れないが。
「そこまで私の国際公開手術成功を祈って下さっていて、他のことを考えられなかった点は大変嬉しく思います、よ。
それはそうと、森技官は省庁を跨いで国際公開手術めいたものを招致したいとお考えなのですよね?
円安の今インバウンド効果を狙っていらっしゃるとか。
チーム・セイブの麻酔医のスタンリー先生は世界的な知名度を誇る医師なのですよね?」
最愛の人の気分を変えるためもあって話題を転じた。
手術前の言葉の端々からも薄々察していたが、祐樹などよりも遥かに国際的な医師に詳しい最愛の人は確か「挿管の魔術師」と言っていた。
「そうだ。あの先生の麻酔医としての名声は外科医なら誰でも知っている。
だから『自分の手術の麻酔医は是非ともスタンリー先生に』というご指名で引っ張りだこだと聞いている、な」
最愛の人が気を取り直したように笑みを浮かべている。
「国際公開手術は、外科医の祭典でもありますよね。患者さんは最良の手術が受けられるように契約を結びます。手術前の入念な下準備もダブル、いやトリプルとも聞いていますが……とにかく普段の手術よりも綿密ですよね。
それに執刀医以外にも、リカバリー専門の熟練の外科医が満を持して待機しています。
ちなみに私の場合はチャールズ・アッシュべりー先生でした」
最愛の人が切れ長の涼し気な目を瞠っている。
「知ってはいたが、やはり名だたる名医が結集しているな……」
呉先生はジャムの小瓶を名残惜しそうに見ていた。余程お気に召したのだろう。それに外科や手術に一切興味がないので当たり前なのかも知れない。祐樹だって精神科の世界的権威の医師はまるっきり知らないのと同様に。
森技官は職務に直結する話題なので興味深そうな表情を浮かべている。
「チーム・セイブのスタッフにはスタンリー先生も当然含まれています。そして祝杯を挙げる場所として京都を選びました。
スタッフ一同、特にスタンリー先生が舞妓さんを呼んでの宴会に大変興味を持っていらっしゃいまして……。
やはりスタンリー先生ほどの高名な方となると……『一力亭』でなければ相応しくないと考えるのですが?」
最愛の人に援護射撃の目配せを送る前に薄紅色の唇が華麗に開いた。
「森技官は国際公開手術の日本版をと考えていらっしゃいますが、二番煎じという批判は否めないでしょうね……。
でしたら……ある意味花形の外科医だけにスポットライトを当てるのではなくて、麻酔医や技師、そして道具出しの看護師達がどういう心得で手術に臨んでいるかなど、それぞれ解説者を外国から呼んで聞いて貰ったり祐樹が臨んだ先ほどの国際公開手術のように質問も受け入れたりというふうに出来ないでしょうか?
確かに大人数を呼ぶ飛行機のチケット代やホテル代などは掛かります。
しかし、向上心の高いそれぞれの科の医師や看護師などは自腹を切って京都に来てくれるでしょうし、全体的に見ればプラスだと思います。
私達外科医とは異なる視点で手術を見ているスタンリー先生にご意見を承ったら如何でしょう、『一力亭』で」
本来ならば最愛の人よりも祐樹がそういうアイデアを出す役回りだと自認していたが、やはり集中しきった手術を無事にやり遂げた疲労もあるに違いない。
アスリートでいうゾーンに入ったせいで脳内にドーパミンなどの快楽物質が分泌されてはいたけれども。
森技官がアルマーニのスーツがこの上もなく似合う身体を乗り出してきた。
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「博覧強記の香川教授らしく遠藤先生への資産運用のアドバイスがあまりに斬新と言いますか、目から鱗だったのです。
ね、遠藤先生?」
絶対にイエスと返答が返って来るだろうという確信が有った。
「はい!少なくともこの不動産会社でお投資用のマンション購入は絶対にお勧め出来ないと仰って下さいました。
特筆すべきは私の留学時代に使っていたモルガンスタンレー銀行の放置していた口座に残っていた、そしてすっかり忘れてしまっていたドル、今は34年でしたっけ?とにかく30年ぶりの円安なので、ドルを円に換えたら物凄い金額になるということをご教示して下さいました!!」
祐樹が考えていた以上のレスポンスを得て内心ほくそ笑んだ。
「そうのです。内田教授もそうだと思いますが、私も留学未経験組ですよね。ちなみに香川教授も留学はなさっていません。
それなのに、遠藤先生の経歴などを加味してのアドバイスでした。留学歴の有る先生には朗報中の朗報だと思いますが、それ以外の医師にはそぐわないアドバイスだったと思います。
そこの会社からは絶対に契約するなというのは必須として、病院内の医師や看護師全員へのアドバイスではなかったと思います。
今回の相談事は遠藤先生に充てた物で、いわば特殊と申しますか……。病院関係者に対して全体的・一般的な回答は自ずと異なると考えています。
内田教授の望まれる物は病院内への注意喚起ですよね?」
内田教授も温和な笑みを浮かべている。
「そうですね。そのDМを多くの医師が受け取っているという噂は聞いています。
香川教授のご高説では契約しない方が良いとのことなので是非とも『何故契約を反対なさるのか』をエビデンス付きで書いて頂きたいと思っています。
外科医として病院の看板を背負っていらっしゃる香川教授は既に皆の尊敬の対象ですが、意外な一面と申しますか……病院内の職員全員のことも考えているという絶好のアピールになるでしょうから」
内田教授が最愛の人を褒めるのは旧態依然の泥沼のようだった医局に嫌気がさしていた時に医局内クーデターの背中を押して貰ったからという側面もある。そして、次期病院長選挙で最愛の人が勝利するために色々と動いてくれているのも知っていた。
「そういうご主旨なら、香川教授に私からお願いしてみます。ウチの病院勤務の人間が明日や明後日にうっかり契約をしてしまって後悔先に立たずとか後の祭りのような状態にならないためにも」
執務室では土日のデートに想いを馳せているだろう最愛の人は事務処理能力も卓抜している。
森技官の無茶ぶりで不本意ながら探偵というか犯人を特定した時に祐樹の目の前で披露してくれた書類作成の才能は瞠目モノだった。
病院の看板でもある外科の教授が手術をしない他科の教授よりも早く帰宅出来る理由をあの時に実感として知った。
余程のことがない限り定時で上がって祐樹のために世界一美味しい料理を作ってくれたり細々とした家事をしてくれたりする時間をどこから捻出しているのだろうと常々疑問に思っていたが。
そんな彼ならば、内田教授の依頼など所要時間は5分以内だろう。
「不幸中の幸いと申しますか……、迂闊なことに主治医を務める患者さんの容態についての相談をしそびれてしまって……。
医局に戻った後に一度執務室に戻ります。貴重な教授のお時間を再び奪ってしまうことになりますが、それは誠心誠意謝るとして、A4サイズの『注意喚起』についても香川教授と相談して作成して内田教授のメールに添付ファイルとして送りますね。
内田教授が執務室に戻られる頃には出来ていると思いますので、教授から院内メールで一斉送信をなさって頂けたらと思います」
遠藤先生は日本円にして6千万円近くの口座残高をなるべく早く帰宅して確かめたいだろう。
祐樹はそういう金銭的に結構な御身分でもないので、内田教授から遠藤先生への頼まれ仕事を肩代わりした方が良いと判断した。
それに最愛の人と二人きりになれるのはどんな場所でも幸せだし……。
「それは誠に有難いです。また浜田教授をお誘いして四人で呑みに行きましょう。
腹の探り合いなど気の張る宴席ではなくて……。ではそろそろタイムアップですので」
内田教授は慌ただしそうにエレベーター横の階段を降りていった。
この時間のエレベーターは定時上りの医療従事者や見舞客が使うために各駅停車ならぬ各階停止だ。
「田中先生は内田教授だけでなく、浜田教授とも呑みに行く間柄なのですか?」
感心したような驚いたような遠藤先生が祐樹を見上げている。
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「……私が軽率にも営業マンの口車に乗せられて契約を前向きに考えていた時に、田中先生から香川教授のセカンドオピニオンを受けてみないかと有難いお誘いがありまして。
畏れ多いことではありますが、執務室にご意見を伺いに参ったのです」
内田教授はふっくらとした顔に興味深そうな笑みを浮かべている。
「なるほど……。香川外科の団結力の要ですからね、田中先生は。
ウチの医局にもそういう貴重かつ有能な人材が欲しいと思っています。
それはそうと、そこの会社への香川教授のご意見は?」
内田教授の賞賛の言葉は大変嬉しい。
「最悪ですね……。3億5千万円の価格だと提示されていたのですが、香川教授は大変分かりやすい言葉で説明してくださいました。
そして有難いことに相場まで親身になって調べて下さって……」
教授職というポジションに就いている祐樹最愛の人なので、近寄りがたい空気感を纏っていることも事実だ。
手術スタッフに選ばれている医師はそれでも会話をする機会は多いものの、遠藤先生のように英語の論文やレポートを積極的に書くことで医局に貢献している人はそんなチャンスもない。
次期病院長選挙に出馬すると決意している彼には医局一丸となって後押ししなくてはならない。
となると、また医局の慰安旅行でも開催して医局の絆を深めようか。道後温泉の慰安旅行は医師だけだったので今度は香川外科所属の看護師も含めるのも良いかも知れない。
他科の医局よりは纏まっているし、上司のことも信頼している、いや敬愛している医師しか居ないのは香川外科の強みだ。
まあ、祐樹最愛の人の天衣無縫な手技を見て圧倒されない外科医は存在しないだろうけれども。
ただ卓抜した手技を持っているが故に皆が敬して遠ざけるという雰囲気になってしまうのは仕方ないかもしれない。
最愛の人も気軽に世間話をするということに苦手意識を持っている。以前より遥かにマシになっているけれども。
「そうなのですか?そして香川教授の結論は如何だったのでしょう?大変興味深いです!」
内田教授は足を止めていたので、祐樹と遠藤先生も立ち止まった。
何だか教授はもっと時間があれば執務室に戻って詳しく話を聞きたそうな表情に見えた。
「結論は買うなということでした。相場をスーモのサイトで調べて下さいまして、何と相場よりも一億円も高く売っていることが判明しまして」
内田教授は遠藤先生の説明に驚きの表情を浮かべるだろうと予想していた祐樹だったが、意外にも真剣そのものといった感じで頷いている。
「夢の不労所得どころかこちらの赤字が膨らむような仕組みみたいです。
『特別な方へのご案内』などと謳って結局はカモを探していただけで……。危うく騙されてローンを組んでまで買うところでした。
ローンの返済方法も元利均等返済と元金均等返済という二つの方法が有るとも初めて教わった次第です」
内田教授は考えを巡らしているような表情だった。
「その二つの返済方法は生憎知りません。ローンは家用にと既に契約してしまっているので後の祭り状態ですし……。
とにかく、その会社は相場よりも一億円も高い物件購入をさせる業者だということですね?
それは由々しき問題なので病院内に、いや少なくとも我々と志を同じくしてくれている人は特にですが……知らしめないと。
お願いがあります。A4の紙で良いので要点を纏めて下さいませんか?」
遠藤先生に向かって頭を下げて言っている。他科の教授なので業務命令ではなくて単なるお願いだ。
「え?いつまでですか?」
遠藤先生はまんざらでもない表情を浮かべているが、そんな書類作成よりも一刻も早く帰宅してモルガンスタンレー銀行の口座残高を確かめたいというのが本音だろう。
「週明けで構わないですよ。あくまでもお願いですので」
ただ、不動産屋さんでは「次のお客さんもこの部屋を是非借りたいと言っていましてね」とか言って急かす場合が良くあると何かで読んだ覚えがある。もちろん、そんなお客がいないことの方が多いとか。
そして遠藤先生だってどこかの喫茶店から会社に連れて行かれたと先ほど言っていた。そういうカモが他にもいるかも知れない。
多くの医師は最愛の人のように「プロの知識には敵わないので、信頼出来る人に全部お任せしている」とカラリと言う人の方が圧倒的に少ないのも知っていた。
「先生ならこの程度は全てご存知ですよね」とか遠藤先生のように「お目が高い」と言われて質問を封じられてしまう人もいるだろう。この土日にうっかり契約を済ませてしまう人が現れたら大変だ。契約は両者の合意が有れば成立すると先ほど最愛の人が教えてくれたのでなるべく急いで注意喚起したいなと。
「あ!教授に報告すべき患者さんのことがありまして……」
口から出任せだが、この場合は仕方ない。
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「残っていますね。帰国した後は放置してありますが?」
どの程度のドルがその口座に残っているか祐樹的には心配してしまう。
最愛の人の意図するところは分かった積もりだけれども残高が例えば980円、いや980ドルだった場合は資産運用というレベルではないような……。
ちなみに祐樹のゆうちょ口座には980円入っていると思うが確かではない。とにかく千円未満は祐樹の寄ったATMでは引き出せず、窓口に行く暇もないので放置してある。
病院からの給料などはメガバンクに振り込まれるので郵便局に行く用事もなかったし。
「……38万ドルほど入っていたと記憶していますが?」
相変わらず不審そうな表情の遠藤先生と返答を聞いて瑞々しい花のような笑みを浮かべる最愛の人が対照的だった。
「え……?凄いですよね……。一財産ではないですか?今は34年ぶりの円安でしょう?確か1ドル153円ですよね?」
暗算は病院の医師並みに得意だが、ゼロが多くなると桁を間違える懼れがあるので、頭の中の数字を言うのは自粛した。
ぬか喜びをさせてしまうのも申し訳ない。
祐樹にとっては単なる数字だけれども、遠藤先生には「現金」」そのものだ。
最愛の人の笑みも喜ばしげに花開いている。
「正確には今現在154円ですが……。田中先生の説を尊重しても五千八百五十二万円になりますね」
遠藤先生は細い目を大きく瞠って絶句している。
祐樹だって六千万円近くのお金が今まで存在すら忘れていた口座に眠っていたと知ったらそうなるだろう。
「えっ……?ご!五千はっびゃく万円!!!」
音楽の知識などすっかり忘れ果てた祐樹なので何オクターブか具体的に言えないが、思いっきり裏返った声の遠藤先生が絶句している。
最愛の人の薄く形の良い唇が祝福めいた笑みを浮かべて遠藤先生を見上げている。
きっとこの教授執務室ではこんな素っ頓狂な声を上げる医師は居なかったのだろう、実務一点張りの秘書の肩が震えている。
祐樹も笑いを堪えていたので、彼女と目を合わせないようにしよう。絶対に噴き出してしまいそうだ。
「良かったですね。一億円もぼったくられるどころか、六千万円もの口座残高を思い出せたのですから」
棒のように突っ立っている遠藤先生の背中を叩いた。
「……あのう……帰宅して金庫の中、いや抽斗の中だったかも知れませんが……とにかく残高をキチンと確かめてから、そのお金の効果的な増やし方をまたご相談しに参って良いですか?」
ようやく呆然自失状態から半ば覚醒した感じの遠藤先生はおずおずとした口調だ。
「はい。私でお役に立てるのなら喜んで。勤務時間外でしたら何時でもこの部屋にいらして下さい。お待ちしています」
そろそろ多分潮時だろう。
「遠藤先生、良かったですね。今日は早く帰宅なさって口座残高を調べた方が良いのではないでしょうか?」
最愛の人に「後で」という意味を込めた目配せを送りつつ促した。
「そうですね。香川教授、本当に有難うございました!!」
深々と頭を下げた遠藤先生は忌々しそうに応接用のデスクの上に放置されている上質なパンフレットと封筒を手に取ってから室内を出ようとしている。
「いえいえ、お疲れ様でした。気を付けてお帰り下さい」
怜悧で落ち着いた声が重厚な雰囲気を醸し出す執務室に凛と響いている。
「では、失礼します。貴重なお時間を割いて頂いて有難う御座いました」
遠藤先生は感謝感激といった声とお辞儀を扉の前で繰り返している。
丁重な仕草でドアを閉めて廊下を歩んでいる遠藤先生だったが、心は宙に浮いている様子だった。
「おや、田中先生。お疲れ様です」
温厚かつ落ち着いた声を背後から掛けられて振り向いた。
「内田教授、これから医局に降りられるのですか?」
祐樹と同じ白衣姿だったので、帰宅ではなさそうだ。
いかにも温和そうな内科医の笑顔の内田教授だが、実は難易度が高い医局クーデターを見事に完遂させて、今は病院内改革を積極的に推し進めようとしている革命の志士でもある。
「そうです。あ、その封筒、色々な医局の医師に届いているようですね……?」
遠藤先生がゴミでも持つかのように手にしている封筒に目を留めたらしい。
「そうなのですか?ああ、こちらは医局の遠藤先生です。ご存知かも知れないですが……」
他科の教授と医局の医師という関係では知らない可能性が高い。
「内田教授、御高名はかねがねお伺い致しております。心臓外科の遠藤と申します。
この封筒の中に入っていたマンション投資の妥当性を香川教授にご相談しに参ったのですが……」
内田教授が「ほう」という表情を浮かべている。
「遠藤先生の論文やレポートは良く拝見しておりますが、お話しするのは初めてです」
遠藤先生は嬉しそうな表情で内田教授にお辞儀をしている。手技ではなく論文で勝負している遠藤先生なので、内田教授にレポートまで読んで貰っているのは大変嬉しいのだろう。
「ところで、そのパンフレットの内容に対して香川教授のご意見は如何だったのでしょう?あの方の広範な知識は存じ上げておりますので……」
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