「今宵も迎えを遣わすが……それまで時が過ぎるのを一日千秋の想いで、釣り殿から見えたかがり火よりも強く焦がれて待っている」
昨日通された頼長様が使っていらっしゃる場所で、櫛などを使って頼長様の御手で髪が結い上げられて首筋が露わになりました。
一の女房殿である楓様も局に下がるようにとの御命令で本当に二人きりの東三条邸は豪奢な中にも今めかしさの漂う一廓で頼長様の薫物と二人の体温や汗の雫、そして零れてしまった白珠の痕が昨夜の逢瀬の激しさを偲ばせる頼長様の衣を素肌に纏っただけの私に朝ぼらけのやや冷たい空気と頼長様の薫物の香りに酔い痴れておりました。髪を掻き上げる丁寧な手つきや首筋を名残惜しそうに唇が滑っていく感触に素肌を震わせながら。
「私もです……。今日もひねもす頼長様への焦がれる想いと共に、火取りを見ればいつでも思い出してしまいます、一人であることを。
しかし、北の方様の御不興を買うような真似は致したくありませんので……、宴のことは構えて無理強いをなさらないことを切にお願いする次第です」
頼長様は私に烏帽子をかぶせて下さって名残惜しそうに首筋に唇を落とされました。
「そこは……。弱うございますので……。また……契りたく……なって……しまいます」
頼長様の御指が未だ芯を作って絹を押し上げている場所に軽く触れて、背筋が撓るほど大仰に反応してしまいました。
「二日の逢瀬でこのようになるとは、先行きが愉しみだ……」
陰陽道の忌み日などで爪を長く伸ばしている御方も多い中で、頼長様の爪は短くてその爪で絹を押し上げている私の胸の芯やその周りを――昨夜雪のごとく降りしきっていた桜の花のような色に染まった場所でした――確かめるように辿られて、唇からあられもない声が出るのを防ぐために唇を指で塞いでいると、頼長様はとても楽しそうに、そして愛おしそうにお笑いになった後に一枚一枚衣を着せ掛けて下さいました。
「妹御、芳子と申したな……。裳着を済ませているなら是非呼びたかったのだが仕方あるまい。『腰結い』の件と……。そして兄君への文を宜しく頼む」
妹のことまで考えて下さったことへの感謝の念と頼長様への慕わしさが「泉川」のように心の中を流れていきました。しかし、兄君の関白忠通様への文のことを考えると「有らまほしき」歌が本当に出来るかとても覚束なかったのも事実でした。
「関白様は、和歌集に関してどの歌集がお好きでいらっしゃいますか」
漢詩なら我が父上に推敲を頼むという手だてもありましたが、かの紀貫之殿も書き記しているように「切々とした心情を詠むなら和歌に限る」と読んだことが朝の冷気に冴え冴えとした頭でようやく思い出しました。
それに、北の方様にも――いくら背の君の頼長様には何気ない風を装っていたとしても悋気の炎を燃やしていないとも限りませんので――ご挨拶のやまと歌を送るのはむしろ当然だとも思いましたので。炎の余り火にくべられてもそれはそれで致し方のないことです。
「大和歌なら『拾遺和歌集』がお好みだと漏れ聞いている。
撰者は――我が直系の道長公の兄君の道兼公が憚られる手段で帝の御位から下ろし奉った方の――花山院ではあるが、道長公のゆかりの人々の歌が載っている上に心情表現と和歌の技法が素晴らしいと絶賛していたとか……」
全ては伝え聞きのようなお話しに、このご兄弟の仲が疎々しいのを実感致しました。
それに頼長様も、そしてお兄君も道長公の輝くばかりの栄華を――その頃には上皇様が政り事に与るようなことはございませんでしたし、藤原摂関家を脅かす存在は臣籍降下した御皇族である「源」姓――それも今の風潮のように遥か昔の帝の何代目に当たるなどと申している武門の誉れが高い家柄ではなく――物語の光る君のような帝とは近い方のみでした。
取るに足らない身の上ではありますが、頼長様の「有らまほしき」世とは道長公の時代のようで、いささか不安を覚えたのも事実でした。
ただ、頼長様と釣り殿で二人きりで夜を明かした時に伺った上皇様の近臣と呼ばれる御方には、色の道で親しくなさっているようでしたが。
「承りました。『拾遺』風に詠むように努めます。やはり自作の歌で私の心情を縷々申し述べたいのです。漢詩だとなかなか難しいかと存じますので」
お話しを――これも後朝の別れなのでしょうが――交わしている間に頼長様は私の直衣を几帳面過ぎるほど綺麗に着付けて下さいました。
「それは夜桜の君に任せる。あとは、見事な笛の音も宴の席で所望致しても良いか」
楓殿が見計らったように頼長様の愛でていらっしゃる鸚鵡の瑠璃の籠を持って参りました。
「夜桜の君、朝餉……美味しい」
嬉しそうに羽根を――瑠璃と名付けたのも至極尤もでした――優雅に動かして先程の朝餉の御礼をしているようで、見ているとこちらも心が穏やかになりました。
それに笛は上皇様の観桜の宴用に練習した曲が――頼長様の寂しげな瞳を拝見して「想夫恋」しかやんごとなき人々の前では奏でていませんでした――有りますのでそれほど難しいことではないと思いました。
「名残りは尽きぬが……。そろそろ。また今宵の逢瀬で……」
頼長様は内裏に参られるので御座いましょう。私のような勉強中の身の上ではなく、しかも出仕する役人には綱紀粛正を厳しく命じられた御方だけに夜明け前のこの刻に参内するのも、むしろ当然です。そういう律義さも頼長様の慕わしさとなって心だけではなく愛の手管に馴染んできた身体までがかがり火に照らされた桜のような心持ちが致しました。
「頼長様……夜桜の君は私がお送り致します」
控え目に声を掛けて来られたのは大江様で御座いました。
昨日通された頼長様が使っていらっしゃる場所で、櫛などを使って頼長様の御手で髪が結い上げられて首筋が露わになりました。
一の女房殿である楓様も局に下がるようにとの御命令で本当に二人きりの東三条邸は豪奢な中にも今めかしさの漂う一廓で頼長様の薫物と二人の体温や汗の雫、そして零れてしまった白珠の痕が昨夜の逢瀬の激しさを偲ばせる頼長様の衣を素肌に纏っただけの私に朝ぼらけのやや冷たい空気と頼長様の薫物の香りに酔い痴れておりました。髪を掻き上げる丁寧な手つきや首筋を名残惜しそうに唇が滑っていく感触に素肌を震わせながら。
「私もです……。今日もひねもす頼長様への焦がれる想いと共に、火取りを見ればいつでも思い出してしまいます、一人であることを。
しかし、北の方様の御不興を買うような真似は致したくありませんので……、宴のことは構えて無理強いをなさらないことを切にお願いする次第です」
頼長様は私に烏帽子をかぶせて下さって名残惜しそうに首筋に唇を落とされました。
「そこは……。弱うございますので……。また……契りたく……なって……しまいます」
頼長様の御指が未だ芯を作って絹を押し上げている場所に軽く触れて、背筋が撓るほど大仰に反応してしまいました。
「二日の逢瀬でこのようになるとは、先行きが愉しみだ……」
陰陽道の忌み日などで爪を長く伸ばしている御方も多い中で、頼長様の爪は短くてその爪で絹を押し上げている私の胸の芯やその周りを――昨夜雪のごとく降りしきっていた桜の花のような色に染まった場所でした――確かめるように辿られて、唇からあられもない声が出るのを防ぐために唇を指で塞いでいると、頼長様はとても楽しそうに、そして愛おしそうにお笑いになった後に一枚一枚衣を着せ掛けて下さいました。
「妹御、芳子と申したな……。裳着を済ませているなら是非呼びたかったのだが仕方あるまい。『腰結い』の件と……。そして兄君への文を宜しく頼む」
妹のことまで考えて下さったことへの感謝の念と頼長様への慕わしさが「泉川」のように心の中を流れていきました。しかし、兄君の関白忠通様への文のことを考えると「有らまほしき」歌が本当に出来るかとても覚束なかったのも事実でした。
「関白様は、和歌集に関してどの歌集がお好きでいらっしゃいますか」
漢詩なら我が父上に推敲を頼むという手だてもありましたが、かの紀貫之殿も書き記しているように「切々とした心情を詠むなら和歌に限る」と読んだことが朝の冷気に冴え冴えとした頭でようやく思い出しました。
それに、北の方様にも――いくら背の君の頼長様には何気ない風を装っていたとしても悋気の炎を燃やしていないとも限りませんので――ご挨拶のやまと歌を送るのはむしろ当然だとも思いましたので。炎の余り火にくべられてもそれはそれで致し方のないことです。
「大和歌なら『拾遺和歌集』がお好みだと漏れ聞いている。
撰者は――我が直系の道長公の兄君の道兼公が憚られる手段で帝の御位から下ろし奉った方の――花山院ではあるが、道長公のゆかりの人々の歌が載っている上に心情表現と和歌の技法が素晴らしいと絶賛していたとか……」
全ては伝え聞きのようなお話しに、このご兄弟の仲が疎々しいのを実感致しました。
それに頼長様も、そしてお兄君も道長公の輝くばかりの栄華を――その頃には上皇様が政り事に与るようなことはございませんでしたし、藤原摂関家を脅かす存在は臣籍降下した御皇族である「源」姓――それも今の風潮のように遥か昔の帝の何代目に当たるなどと申している武門の誉れが高い家柄ではなく――物語の光る君のような帝とは近い方のみでした。
取るに足らない身の上ではありますが、頼長様の「有らまほしき」世とは道長公の時代のようで、いささか不安を覚えたのも事実でした。
ただ、頼長様と釣り殿で二人きりで夜を明かした時に伺った上皇様の近臣と呼ばれる御方には、色の道で親しくなさっているようでしたが。
「承りました。『拾遺』風に詠むように努めます。やはり自作の歌で私の心情を縷々申し述べたいのです。漢詩だとなかなか難しいかと存じますので」
お話しを――これも後朝の別れなのでしょうが――交わしている間に頼長様は私の直衣を几帳面過ぎるほど綺麗に着付けて下さいました。
「それは夜桜の君に任せる。あとは、見事な笛の音も宴の席で所望致しても良いか」
楓殿が見計らったように頼長様の愛でていらっしゃる鸚鵡の瑠璃の籠を持って参りました。
「夜桜の君、朝餉……美味しい」
嬉しそうに羽根を――瑠璃と名付けたのも至極尤もでした――優雅に動かして先程の朝餉の御礼をしているようで、見ているとこちらも心が穏やかになりました。
それに笛は上皇様の観桜の宴用に練習した曲が――頼長様の寂しげな瞳を拝見して「想夫恋」しかやんごとなき人々の前では奏でていませんでした――有りますのでそれほど難しいことではないと思いました。
「名残りは尽きぬが……。そろそろ。また今宵の逢瀬で……」
頼長様は内裏に参られるので御座いましょう。私のような勉強中の身の上ではなく、しかも出仕する役人には綱紀粛正を厳しく命じられた御方だけに夜明け前のこの刻に参内するのも、むしろ当然です。そういう律義さも頼長様の慕わしさとなって心だけではなく愛の手管に馴染んできた身体までがかがり火に照らされた桜のような心持ちが致しました。
「頼長様……夜桜の君は私がお送り致します」
控え目に声を掛けて来られたのは大江様で御座いました。