仕事を取っても祐樹が残る。
多分、長岡先生が言っていたのはそういうことだろう。
この病院に馴染むにつれて親しい人はたくさん出来た。出来たけれども、祐樹は別格だった。
もし、世界が明日滅びることが分かったとして、その場合は祐樹と過ごして一緒に生を終えたい。
そんなことを思いながら不定愁訴外来の有る旧館に入っていく。
自分の科は新館に位置している。新館はいかにも現代風の病院そのものといった感じの機能を優先させた造りになっているが、旧館は由緒正しい昔の洋風の建物といった趣があって訪れるたびに安らいだ気分になる。
不定愁訴外来は呉先生が精神科の真殿教授と大ゲンカした末に立ち上げた、先生の小さな城だと聞いている。患者さんの愚痴を聞いて、それが病院側の不備にあるのか、患者さんのワガママなのかそれとも精神疾患に類するものなのかを見極める仕事だ。
医師やナースなどに対する患者さんへの態度の悪さや説明不足など病院側の不備だった場合、呉先生はどこの医局でそれが起こったかを一覧表にして斎藤病院長に文書で報告する任務も請け負っている。
通常、教授職と大喧嘩したとか不興を買った場合は地方の公立病院などに追いやられてしまう。呉先生が精神科からポツンと離れた場所であっても病院に残れたのは医師として有能だったということもあるだろうが、斎藤病院長が病院内のクレームを集めて今後の参考にしたいと考えたからという理由もあったのではないかと考えている。
昔ながらのドアをノックした。
「どうぞお入りください」
活舌の良い、爽やかな声が返ってくる。
「お久しぶりです。
森技官とは病院長室で先日お会いしましたが、同じ病院に勤めている呉先生のお顔を見る機会がないのは皮肉ですね」
呉先生の可憐な野のスミレといった風情の顔が笑みを浮かべていたものの、どこか怪訝そうだった。
「香川教授、お久しぶりです。同じ病院で、いつでも会えると思うと安心してしまうので積極的に会おうとはしなくなるのではないでしょうか……
今日は珍しく白衣姿なのですね?」
呉先生の怪訝な表情の理由はきっと白衣の件だろう。不定愁訴外来に寄るのは帰宅途中であることが圧倒的に多くて、当然白衣は来ていない。
華奢な体に相応しい軽快な足取りで部屋を横切って、鮮やかな手つきでコーヒーを淹れ始めてくれる。
なるべく直接的な説明は避けて――呉先生は手術どころか血を見ると気分が悪くなる人だったので――白衣の理由を説明した。
すぐに香ばしい良い香りがノスタルジックなこの部屋の中をさらに落ち着いたものへと変えていく。
「……ですから、一応待機しています。黒木准教授から電話が入ったら直ぐに駆けつけなければならないので、話の腰を折ってしまうかもしれませんので予めご容赦ください」
馥郁たる香りのコーヒーが目の前に置かれた。
「それは構いません。相変わらずお忙しいのですね。
香川外科は病院の看板ですから、仕方ないのかも知れないですね。
ああ、そうそう、田中先生が最近、旧館の塀の外にタバコを吸うのにもってこいの場所を見つけられたとかで、ちょくちょく寄って下さっています。
その度に教授のことを話してくださるので、久しぶりといった感じはしないです」
スミレの花のような笑みを浮かべた唇にコーヒーの湯気が当たっている。礼を言って一口飲むと、長岡先生が取り寄せてくれたコーヒーよりもはるかに美味しい。
当たり前だが病院内は完全禁煙で、祐樹は夜勤中の休憩時間に煙草を吸える場所を探している。家での喫煙は知り合った頃よりかなり減ったが、救急救命室の心身ともの激務の合間には一人になって煙草を吸ってぼんやりしたいと言っていた。
煙草が体に悪いのは医師でなくとも字が読める日本人なら誰でも知っているだろう。
ただ心疾患などの血管系、そしてガンのリスクが高まる喫煙だが、どちらも遺伝子要因に左右される面がある。ストレスはこの職業を選んだ人間なら誰しも抱いているだろうが。
祐樹の遺伝子を健康診断の時に採取した血液の一部を私的に入手してアメリカに送って検査してもらったことが有って、上記二つの遺伝子要因が非常に少ないとのレポートを受け取った後には喫煙について何も言っていない。遺伝子的なリスクが高ければそれとなく注意しようと思っていたのだが。
「その度ごとに……ですか?」
祐樹は隠れ家というか誰にも見つからない場所を見つけるのがとても上手い。
「ええ、相変わらず仲が良いなと思っています。
一つだけ気になるというか、何かな?と疑問に思うことがあるのですが……」
疑問?もしかして「見てくれだけのバカ」な人の話だろうか?
「疑問ですか……?」
聞く声が上ずっているのが自分でも分かった。
「はい、田中先生が森技官と喧嘩するようなことが起こったら『田中先生が持っている録音を聞かせてもらう』と言えばきっと有利になると楽しそうに仰っていました。
その内容を一部聞いたのですが、田中先生の口から!」
細い綺麗な眉がキリリと上がった。
「あいつはお二人の前で……オレ……いや私のことを『ウチの』とか勝手に所有物みたいに言ったそうですね!?」
確かに森技官がそう言っているのを聞いた覚えがある。あったが、それの何が問題で、そして呉先生が怒っているのかさっぱり分からない。
というより、祐樹が愛の行為の時に「私の聡」とか言ってくれることがあって、それだけで嬉しいのだが。
「確かに聞いた覚えがありますけれど……」
呉先生の恋人かつ同居人の森技官の音声を録音したのだろうか……。「ウチの」と言っていた時の会話の流れ……。
思い出してみると、思わず顔が赤くなった。
--------------------------------------------------
二個のランキングに参加させて頂いています。
クリック(タップ)して頂けると更新のモチベーションが劇的に上がりますので、どうか宜しくお願い致します!!
にほんブログ村
小説(BL)ランキング
2ポチ有難うございました!!