「では、定時になりましたのでお先に失礼致します」
余計なことは何も言わない点も気に入っている秘書が控え目な感じで声を掛けてきた。
「お疲れ様です。また明日宜しくお願い致します」
一礼した後に備え付けの固定電話が鳴った。反射的に出ようとする秘書を目で制してから電話に出ると意外な声が受話器越しに聞こえて来た。
「研修医の清水です。折鶴勝負の時の特訓有難う御座いました。御礼を兼ねて教授執務室に伺いたいのですが、具体的なお時間を教えて頂ければ幸いです」
誠実そうな響きながらも一歩も引かない感じを受けるのは、きっと彼が覚悟を決めた上で――しかも彼の場合はお父様が斉藤病院長の「親友」であり、京都一の私立病院の御曹司という出自に相応しくイザと言う時の度胸の据わり方が折鶴勝負の時にほの見えた――電話をしてきたに違いない。
「ご存知かと思いますが、私の場合定時上がりです。先生の都合で決めた方が合理的ですよ」
電話の向こうで絶句している感じだった。自分の科の研修医でもある久米先生は折鶴勝負の時に場の雰囲気にのまれたというのに――それでも、久米先生は祐樹が密かにライバル視する程度の素質は充分持っている――それでも旧態依然のヒエラルキーは未だに根強く生きているのを体感した。
「では……急で申し訳ないのですが、ご厚意に甘えまして今からでも宜しいですか」
どうせというか、今日も祐樹の帰りは遅い。書店でのサイン会の日程こそ決まったが、まだまだ本の出版による非常事態は継続中で、そのしわ寄せが普段から多忙な祐樹にどっと押しかけているという感じだった。
「はい」と答えて電話を切った後に、祐樹には未だ内緒にしている将来の病院長選挙について――清水研修医のお父様は斉藤病院長の同級生かつ支援者だった――何かしら話が聴けるかもしれないなと思いついた。
それに、研修医の立場で呼び出しを食らったわけではなくこの執務室にやって来るのは祐樹以外に居なかったなと懐かしく思い出す。
ただ、祐樹の時は教授職に就いた自分が祐樹に会うために帰国したようなものだったので、自分からもかなり――今思えば失笑モノの幼稚さで――色々と考えていたので、まだ敷居が少しくらいは低かったと思ってしまうが。
育ちの良さかそれとも生来の素質なのかは分からないものの、清水研修医は久米先生どころか祐樹に匹敵する程度の度胸の持ち主のようだった。
精神科の真殿教授が運悪く通りかからなければ良いなと彼自身のために願いながら、将来に必ず来る病院長選挙の根回しの一環を考え続けていたところだった。
そして、これ以上祐樹の負担になってはいけないので――些細な隠し事なら今なら何とか露見せずに済んでいたものの、百貨店に毛糸を買いに行くなどと異なって――病院内で動くのは祐樹の広い人脈のどこかに必ず引っ掛かりそうで細心の注意を払わないとならないのは言うまでもない。
自分に今出来ることはしておこうと思った。
今なら祐樹も出版に伴うサイン会とか「披露宴」とかテレビ出演などの、本来の職務ではないことに気を取られていて病院内政治のことまで手が回っていないのも知っている。久米先生の特訓という――自分にとってはそう重要ではないものの――自分の科に愛着を持ってくれるがゆえのことだろうが、勝ち負けにはかなり拘る祐樹にしては珍しい――外科にしか通用しない「重要事項」の丸投げという事態を引き起こしていた。
患者さんの迷惑にならなければそれで良いので、たかだか外科の親睦会の催し物に過ぎないことを蒸し返す積りも毛頭なかったが。
だからこの時期を逸してしまうと祐樹のアンテナに引っかかる可能性が高くなることも分かっているので動ける時には動いておきたい。
実家が医師という点では自分の科の久米先生だって同じだが、彼に話した場合は絶対に祐樹に抜けてしまうことくらいは分かる。
その点清水研修医は救急救命室では一緒に働いているが、キチンと口止めさえしておけば大丈夫ではないかという安心感もあった。黒木准教授には既に話はしておいたが、今のところその程度で、後は第一回の外科親睦会――ちなみに祐樹と自分が鉗子と攝子で作った折鶴の収益が莫大なものになりそうな勢いで数字が伸びている最中だったし、二回目以降も同じ路線で行くらしい――の時に桜木先生という手術職人に話した程度だった。
「清水です。お呼びにより参上し致しました」
落ち着いた感じが、当時の研修医だった祐樹を彷彿とさせる。
ただ、黒木准教授のように教授執務室に来慣れている人だったら話は別だが、清水研修医の本来の所属先の精神科、真殿教授は割と温和な呉先生と大喧嘩をするほどの人だったし、そんなに後進の指導に熱心だとも聞いたことがない。
「どうぞ」
清水研修医はドアの前に立って深々とお辞儀をしてから――真殿教授が通りかからないかとこちらが不安に思うほど長く――ドアを閉めた。
「あの節は誠にお世話になりました。教授と田中先生の、まさに世界レベルの凄さを目の当たりに出来たことで、外科医として一から修業する決意を新たに致しました。
また、オーク○の出版記念パーティに、他の先生方を差し置いてまさかのテーブル席を用意して下さったことも併せて御礼申し上げます。
正直なところ、こちらは親の七光りだろうな……とは思っておりますが……。しかし子は親を選べないですし、その点では非常に幸運だったと思っております」
御曹司らしい鷹揚さは岩松氏を彷彿とさせるし、礼儀正しさという点や率直な点、そして大胆さなども――精神科でも充分に生きていけるだろうが――外科向きの人材だろう。
手先の器用さは折り紙付きだったし。
「どうぞ、お掛けになってお待ちください。秘書が定時で帰宅してしまったので、コーヒーを淹れますので」
当たり前のようにそう言うと、清水研修医は先程とはまるっきり異なった反応を見せた。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔というのはきっとこんな表情だろうと思えるような感じの。
ただ、何故そんなに驚いたのかは分からないが。
余計なことは何も言わない点も気に入っている秘書が控え目な感じで声を掛けてきた。
「お疲れ様です。また明日宜しくお願い致します」
一礼した後に備え付けの固定電話が鳴った。反射的に出ようとする秘書を目で制してから電話に出ると意外な声が受話器越しに聞こえて来た。
「研修医の清水です。折鶴勝負の時の特訓有難う御座いました。御礼を兼ねて教授執務室に伺いたいのですが、具体的なお時間を教えて頂ければ幸いです」
誠実そうな響きながらも一歩も引かない感じを受けるのは、きっと彼が覚悟を決めた上で――しかも彼の場合はお父様が斉藤病院長の「親友」であり、京都一の私立病院の御曹司という出自に相応しくイザと言う時の度胸の据わり方が折鶴勝負の時にほの見えた――電話をしてきたに違いない。
「ご存知かと思いますが、私の場合定時上がりです。先生の都合で決めた方が合理的ですよ」
電話の向こうで絶句している感じだった。自分の科の研修医でもある久米先生は折鶴勝負の時に場の雰囲気にのまれたというのに――それでも、久米先生は祐樹が密かにライバル視する程度の素質は充分持っている――それでも旧態依然のヒエラルキーは未だに根強く生きているのを体感した。
「では……急で申し訳ないのですが、ご厚意に甘えまして今からでも宜しいですか」
どうせというか、今日も祐樹の帰りは遅い。書店でのサイン会の日程こそ決まったが、まだまだ本の出版による非常事態は継続中で、そのしわ寄せが普段から多忙な祐樹にどっと押しかけているという感じだった。
「はい」と答えて電話を切った後に、祐樹には未だ内緒にしている将来の病院長選挙について――清水研修医のお父様は斉藤病院長の同級生かつ支援者だった――何かしら話が聴けるかもしれないなと思いついた。
それに、研修医の立場で呼び出しを食らったわけではなくこの執務室にやって来るのは祐樹以外に居なかったなと懐かしく思い出す。
ただ、祐樹の時は教授職に就いた自分が祐樹に会うために帰国したようなものだったので、自分からもかなり――今思えば失笑モノの幼稚さで――色々と考えていたので、まだ敷居が少しくらいは低かったと思ってしまうが。
育ちの良さかそれとも生来の素質なのかは分からないものの、清水研修医は久米先生どころか祐樹に匹敵する程度の度胸の持ち主のようだった。
精神科の真殿教授が運悪く通りかからなければ良いなと彼自身のために願いながら、将来に必ず来る病院長選挙の根回しの一環を考え続けていたところだった。
そして、これ以上祐樹の負担になってはいけないので――些細な隠し事なら今なら何とか露見せずに済んでいたものの、百貨店に毛糸を買いに行くなどと異なって――病院内で動くのは祐樹の広い人脈のどこかに必ず引っ掛かりそうで細心の注意を払わないとならないのは言うまでもない。
自分に今出来ることはしておこうと思った。
今なら祐樹も出版に伴うサイン会とか「披露宴」とかテレビ出演などの、本来の職務ではないことに気を取られていて病院内政治のことまで手が回っていないのも知っている。久米先生の特訓という――自分にとってはそう重要ではないものの――自分の科に愛着を持ってくれるがゆえのことだろうが、勝ち負けにはかなり拘る祐樹にしては珍しい――外科にしか通用しない「重要事項」の丸投げという事態を引き起こしていた。
患者さんの迷惑にならなければそれで良いので、たかだか外科の親睦会の催し物に過ぎないことを蒸し返す積りも毛頭なかったが。
だからこの時期を逸してしまうと祐樹のアンテナに引っかかる可能性が高くなることも分かっているので動ける時には動いておきたい。
実家が医師という点では自分の科の久米先生だって同じだが、彼に話した場合は絶対に祐樹に抜けてしまうことくらいは分かる。
その点清水研修医は救急救命室では一緒に働いているが、キチンと口止めさえしておけば大丈夫ではないかという安心感もあった。黒木准教授には既に話はしておいたが、今のところその程度で、後は第一回の外科親睦会――ちなみに祐樹と自分が鉗子と攝子で作った折鶴の収益が莫大なものになりそうな勢いで数字が伸びている最中だったし、二回目以降も同じ路線で行くらしい――の時に桜木先生という手術職人に話した程度だった。
「清水です。お呼びにより参上し致しました」
落ち着いた感じが、当時の研修医だった祐樹を彷彿とさせる。
ただ、黒木准教授のように教授執務室に来慣れている人だったら話は別だが、清水研修医の本来の所属先の精神科、真殿教授は割と温和な呉先生と大喧嘩をするほどの人だったし、そんなに後進の指導に熱心だとも聞いたことがない。
「どうぞ」
清水研修医はドアの前に立って深々とお辞儀をしてから――真殿教授が通りかからないかとこちらが不安に思うほど長く――ドアを閉めた。
「あの節は誠にお世話になりました。教授と田中先生の、まさに世界レベルの凄さを目の当たりに出来たことで、外科医として一から修業する決意を新たに致しました。
また、オーク○の出版記念パーティに、他の先生方を差し置いてまさかのテーブル席を用意して下さったことも併せて御礼申し上げます。
正直なところ、こちらは親の七光りだろうな……とは思っておりますが……。しかし子は親を選べないですし、その点では非常に幸運だったと思っております」
御曹司らしい鷹揚さは岩松氏を彷彿とさせるし、礼儀正しさという点や率直な点、そして大胆さなども――精神科でも充分に生きていけるだろうが――外科向きの人材だろう。
手先の器用さは折り紙付きだったし。
「どうぞ、お掛けになってお待ちください。秘書が定時で帰宅してしまったので、コーヒーを淹れますので」
当たり前のようにそう言うと、清水研修医は先程とはまるっきり異なった反応を見せた。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔というのはきっとこんな表情だろうと思えるような感じの。
ただ、何故そんなに驚いたのかは分からないが。
【お詫び】
リアル生活が多忙を極めておりまして、不定期更新になります。
更新を気長にお待ち下さると幸いです。
本当に申し訳ありません。
お休みしてしまって申し訳ありませんでした。なるべく毎日更新したいのですが、なかなか時間が取れずにいます……。
目指せ!二話更新なのですが、一話も更新出来ずに終わる可能性も……。
なるべく頑張りますので気長にお付き合い下されば嬉しいです。
こうやま みか拝
【お詫び】
リアル生活が多忙を極めておりまして、不定期更新になります。
更新を気長にお待ち下さると幸いです。
本当に申し訳ありません。
お休みしてしまって申し訳ありませんでした。なるべく毎日更新したいのですが、なかなか時間が取れずにいます……。
目指せ!二話更新なのですが、一話も更新出来ずに終わる可能性も……。
なるべく頑張りますので気長にお付き合い下されば嬉しいです。
こうやま みか拝