「ま、田中先生、教授は真っ先に言うべき人をすっ飛ばしてしまったのも、マイノリティの底力ってのを咄嗟に判断したからさ。それに、医局で会えるアンタとは違ってオレは外科親睦会がなけりゃ手術室前の廊下ですれ違うだけだろ?
 それに、教授だってアンタに一番先に伝えたかったと思うぜ。なんせ、病院内で最も信頼してんのは間違いなく田中先生だからな」
 桜木先生が取り成すような表情を浮かべて祐樹の方を見ている。
 確かにその通りなのだが、手術室周辺で――そして自分の手術がつつがなく終わった後のモニタールームで祐樹の手術を見るために足を運ぶと桜木先生の姿を見ることも多かった――しか会わない桜木先生がここまで的確に把握していることに内心で驚いた。
「ああ、なるほど……。まあそれはそうですね……。伺った時には本当に、心の底から、魂消るほど……驚きましたが」
 壇上に残っていた清水研修医が含み笑いをしていることに気付いた。それまでは祐樹の凍り付いたような表情を息を殺して見ていたので、すっかり視界から消えていたので。
「その件については今ではなくても一から十まで話せると思うので。ゆ…田中先生の納得するまで」
 だから今は聞くなという目配せを必死で送った。祐樹しか気付かない程度の強さで。
「了解です。済みません、この場を乱してしまって」
 桜木先生とは――本当の関係には気付いていないことを祈りたい――祐樹が研修医時代からの知り合いだったし、ずっと手術室に居るわけだから祐樹の手技が自分と似ている点とか以前の医局内騒動などで祐樹がどれだけ動いたのかも知っているだけに、風穴を開けに来たのかもしれないな……と考えながらひたすら目の前のお客さんにサインをして握手をするという作業に勤しんだ。
「香川教授、田中先生この度はおめでとう。いやあ、こんな見事な胡蝶蘭を背景に白いテーブルクロス、そして薔薇の花が二人の男前を更に上げている……いや、二人の愛……じゃなく快挙を寿いでいるようだね」
 杉田弁護士が列の最後尾に並んでくれていたのは見て知っていたが――ちなみに長岡先生や久米先生達はずっと約束通り何周もしてくれていた――テーブルの前に立った瞬間に笑いを含んだ飄々とした感じで祝いの言葉を掛けてくれた。
 ただ、本人の人徳か話し方のせいだかは分からないものの、同じ内容を森技官が言ったら何か含みがあるのかと祐樹なら色めき立つレベルだが、杉田弁護士の言葉には隣に座っている祐樹も苦笑を浮かべているだけだった。
「わざわざご足労頂き誠に有難う御座います。いらして下さるとは思ってもいませんでした」
 正確に時を刻む体内時計がこの書店のサイン会の終了予定5分前であること、そして会場内にサインを終えた多数の人達が柱の周辺とか一般客の邪魔にならない死角めいた場所で未だこちらを見ていることも当然気が付いていた。
「いやいや、来たいから来た、それだけだよ。
 どうやら最後の一人みたいだが、未だ時間はあるだろう。あ、サインは『夫婦円満を祈ります』と先に書いて貰えれば有り難い。田中先生には『商売繁盛』とでも」
 ドラマの中に出てくる弁護士さんとは違って――と言っても自分達もドラマの中の医師とは異なっているという自覚は有る――飄々とした感じで言われてこちらも営業用ではない自然な笑みが浮かんでくる。
「私に商売繁盛を祈ってもそんなにご利益があるようには思えませんが」
 隣の祐樹もすっかり寛いだ雰囲気を醸し出しているのは杉田弁護士の人柄と最後の客という二つの要素からだろう。
「私にも『夫婦円満』なんてそんな恐れ多いことを書いて大丈夫なのですか?
 杉田師長が見たら失笑モノだと思いますが」
 彼女は病院総動員命令が病院長から下っているせいで、多分救急救命室で勤務中だろうが、束縛し合わない自由な夫婦というのが杉田弁護士の理想なので上手く行っていると聞いている。
「そのギャップが面白いんだよ」
 言われるままにペンを走らせて本を手渡した後に腕時計で時間を確かめるとやはり5分29秒残っていた。
 祐樹も苦笑を浮かべながら本にサインをして握手をしている。
「香川教授、待っている間にナースと思しきお嬢さん方の会話が耳に入ってね。立ってくれないか」
 有無を言わさない口調にわけも分からず立ち上がった。
「で、少し左に寄る。ああ、田中先生も立ってくれればもっと良い」
 何が何だか分からないが、促されるままに祐樹の傍に歩み寄った。祐樹も怪訝そうな表情を浮かべて椅子から立ち上がっている。
「田中先生は教授のウエストラインに手を回す……。いや、ベルトの位置ではなくて、一番細い部分だ」
 え?と思った時には祐樹の大きな手がウエストラインに回されていた。
 会場内が一斉に色めきたった感じで、スマホをかざしたり撮影したりする音と共に黄色い悲鳴まで聞こえて来た。
「何ですか?一体……」
 祐樹に腰を引き寄せられたままの状態で――それでも以前とは異なって笑顔を浮かべるだけの余裕は有ったが――杉田弁護士に聞いてみた。
 会場のあちこちで、はしゃぎ声とかハイタッチを決める妙齢の女性達の行動が不可解だったし、スマホなどで撮影され続けているのも謎だったので。











 
【お詫び】
 リアル生活が多忙を極めておりまして、不定期更新になります。
 更新を気長にお待ち下さると幸いです。
 毎日何かしらは更新出来るとは思いますが、私にも予測出来ない突発的なこともありますので早朝六時を目途にいらして頂ければ嬉しいです。
 我がままばかりで申し訳ありません。
 

        こうやま みか拝