「お帰り、祐樹」
 玄関のドアを開けて靴を脱いでいると背後から声を掛けられた。普段と同じような、ただどこか影の有る表情に心が痛んだ。
「ただ今戻りました」
 心、いや魂の痛みを押し殺して口づけを交わした。
「今日は一緒に帰れなくて済みませんでした。相変わらず、とても美味しそうですね」
 室内着に着替えてからキッチンに入るとテーブルの上には分厚いステーキに花型に切られた人参とカリフラワーのソテーが目にも鮮やかに並んでいた。そしてカボチャのスープとサーモン入りのサラダに黄金色のドレッシングがかかっていて、美味しそうな彩りに溢れたテーブルの上は事件以降も変わっていないのが救いと言えば救いだったが。
「患者さんから松阪牛を頂いたので。ステーキにしてみた」
 あの日以来、一日も休むことなく見事な手技を発揮していて、病院長から厳重な箝口令を敷かれていたこともあって事件を知らない人には「いつも通りの」最愛の人だった。
 ただ、無理をしてそう振る舞っていることも何となく分かってしまうので、祐樹としては心が痛んで仕方がない。
「そうですか……。こんな分厚いステーキなら、一度冷凍してしまうと解凍して一時間は寝かせないと美味しくないので……頂いた本日中に焼いてしまうのが一番ですよね」
 椅子に腰を掛けるとガーリックの香りが程よく漂ってくる。
「ステーキで思い出しましたが、森技官と呉先生へのお礼にこのマンションに招いての食事会を提案されて、勝手にイエスと返事をしてしまいました。
 何でも呉先生は貴方の手料理をもう一度食べたいと熱望しているそうなので」
 分厚いステーキをナイフで切ると中からとても美味しそうな肉汁がジュワっと出てくる。
「そうなのか?お店とかではなくて、私なんかの手料理で良いのか?」
 脳外科の元研修医の悲惨な末路は――自業自得だと祐樹的には思うが――最愛の人には聞かせたくはなかったので森技官に一人で会いに行った。その件について最愛の人も「祐樹がそう言うのなら」と快く了承してくれたのだが、御礼の件は気にしていたのを知っていた。
「はい。呉先生がこの部屋に泊まって下さった時に貴方の手料理に胃袋を掴まれたようですね。まあ、このステーキの美味しさでも――といっても、このような焼き方がレアなのはお気に召さないかもですけれど――気持ちは充分に分かりますけれども」
 口に入れると薄っぺらい肉とは異なる重厚な美味しさが舌の上を弾けるような感じで広がっていく、程よい噛みごたえと共に。
「そうなのか。そんなことで御礼になるならお安い御用だが……。
 ああ、レアだと見た目が気になって食べられないとかだろうか、あの二人は……。良く医学部を卒業できたな」
 テーブル越しに最愛の人が可笑しそうに唇を綻ばせているのがとても印象的だった。
「それは、私もしみじみと思います。
 ただ、森技官は究極の負けず嫌いな性格ですし、呉先生も割とその傾向があるので必死に耐えたのでしょうが。
 森技官は貴方の手術をモニター越しに見ただけで気分が悪くなるのに、それよりも生の内臓に触れる機会もある学生時代のカリキュラムを良く乗り切ったなと、ある意味その精神力に乾杯したいです。芳醇な赤ワインが恋しい味ですね。このステーキには……」
 他意なくそう言うと、最愛の人が笑いの花を唇に咲かせたまま椅子からしなやかに立ち上がった。
「赤ワインなら一応、準備はしてあるので、二人で一本開けようか」
 白く長い指にワインのボトルが握られている。
「そうですね。このバターとガーリックと肉にはワインが良く合うと思いますので。
 ワインオープナーは貸して下さい。私が開けます」
 狂気の研修医が付けた傷は――少なくとも肉体的に――すっかり癒えていたものの、仕事中以外の力仕事は祐樹が率先しているのが現状だった。未だ精神的に完治したとは言い難いので。
「分かった。では私はワイングラスを用意する」
 手術着ほどではないが、今着ている最愛の人の室内着も割と身体のラインが綺麗に出て、背中から細い腰、そしてその下の丸い双丘までがくっきりと見えてしまって動悸が早まる。
「乾杯」
 ワイングラスに満たされたルビーの紅さに似たワインを呑みながらステーキを食べるとよりいっそう美味さが際立って、その向こうに最愛の人が静かな佇まいでワイングラスを傾けている様子とか、花よりも綺麗に咲き誇った唇の中に赤いワインを呑んでいるのも物凄く綺麗だった。
「で、先方は土日希望だそうです。この週末辺りは如何ですか?」
 人参のバターソテーの甘味を舌で楽しみながら聞いてみた。呉先生のご機嫌を――やむを得ない事情とはいえ――損ねてしまった森技官の焦る気持ちも痛いほど良く分かったので、ダブルデートを早く実現させる方が良いだろうと日程をなるべく早く決めたい。
「ああ、そちらは祐樹に任せる。食事は洋食が良いだろうか、それとも和食……」
 楽しそうな表情であれこれとメニューを考えている最愛の人の笑みを見るだけで幸せな気分にはなったが、やはり魂のどこかが欠けた痛みが祐樹の中には紛れもなく存在していて心の底から楽しむ気にはなれない。
 ただ、自分に課せられた罪だと思って甘受していく覚悟だったが、最愛の人をあんな目に遭わせてしまった。
「森技官は意外に和食が好みらしいので、和食の方が良いのでは?料理に合わせた日本酒も吟味しましょうか……」
 カボチャのスープの仄かな甘味と丁度いい塩加減を舌の上で味わいながらそう提案した。











 
【お詫び】
 リアル生活が多忙を極めておりまして、不定期更新になります。
 更新を気長にお待ち下さると幸いです。


 綱渡り更新中です……(まあ、それはいつものことなのですが)一応朝の六時頃には確定すると思いますので、ちょくちょく覗いて下さると嬉しいです。



 


        こうやま みか拝