「大丈夫ですよ。この運転手さんは各書店御用達の人でして、裏道など渋滞を避ける方法を知悉していますので」
 京都の街にも詳しそうな高木氏が事もなげな感じで囁いた。書店のサイン会などそう頻繁に開かれるとも思えないのだが、京都一有名なタクシー会社なので色々なニーズに応えているのだろう。それに、高木氏の話では殺人的スケジュールをこなす作家さんも居るようなので――普段は普通のお客さんを乗せているのだろうが――そういう時には駆り出される人なのかも知れない。
 後部座席で隣に座った祐樹も興味深そうに車窓を流れる小さな道を眺めていた。
「サイン会であんなに見事な胡蝶蘭を見たことが有りませんが、あれは貴方のお指図ですか?」
 助手席に座っている高木氏に向かって素朴な疑問をぶつけた。
「いえ、あれは斉藤病院長の御意向で……。各地の名だたる私立病院長に要請した結果だと聞いています。
 旧国立病院ではそういう派手なことは出来ないような経営状態でしょうが、私立の場合は院長の見栄やライバル心も相俟って他の書店にもあの程度の花は届いていますし、既にディスプレイも終わっていると聞いています」
 祐樹の手がそっと自分の指に絡んだ。前の席やバックミラーには映らないように細心の注意を払っているのが分かったので、表情は平静を保ったまま自分も指を密かに動かして付け根まで絡めて強く握った。
「斉藤病院長は派手こそ美徳と考えている方ですからね……。しかも他人のお金ならなおさらのことです。ウチの病院では憎っく……いえ失言でした、有能な事務局長がそんな無駄なお金は絶対に出さないでしょう。『経費削減』と寝言でも言ってそうな人ですから」
 事務局長には多数の含むところのある祐樹が――医局の慰安旅行の代金とか救急救命室への予算の回し方についてまで――ここぞとばかりに言い捨てた。
「経費削減はどこも同じですよ……。出版業界だって、出版パーティなどをしますが以前は業者に丸投げだったのを社員にさせたりしています。
 ウチの平井も元は大手出版社勤務でしたが、パーティの準備のために生まれて初めて釘打ちとかの作業をさせられたと申しておりましたから
 バブル華やかなりし時はタイの世界三大ホテルの一のオリエンタルホテル……ご存知ですよね……あそこを借り切ってのパーティとかを普通に開催していたのですが……。飛行機のチケットまで出版社持ちで……。斉藤病院長もお年からしてそういう時代の恩恵を受けた方でしょうから若き血が騒いだのでしょう……」
 助手席で竹田店長から渡された100冊の本を抱えた高木氏はそういった裏方の苦労を慨嘆するようなため息混じりで内情を暴露している。
「そういえば平井さんは?」
 次のサイン会でもアシスタントを務めてくれる女性の姿が見えないことに今更ながら気付いたのは、やはり生まれて初めての経験でいつもよりも頭の回転が鈍っているのか、祐樹と二人の共同作業、しかも公衆の面前でというおまけ付きで頭が薔薇色に麻痺しているのか、あるいはその両方かも知れないが。
「彼女は残務処理を終わらせた後に、書店の車で次の会場に直接参ります。今頃は既に到着しているでしょう。
 何しろ小型車ですのでこのタクシーよりも細い道も使えますので」
 車窓を眺める祐樹の横顔を見るともなしに眺めながら、指を深く絡めて強く弱く握りあう戯れを繰り返すのも秘密めいて楽しかった。努めて何気ない表情を浮かべて高木氏と話すことも。
「ああ、次の書店の裏口が近いですね」
 祐樹も車を運転するだけに――と言っても京都の繁華街などは車を使って行かないが――裏道にも詳しいのだろう。言い訳のように呟いて絡めた指を離した。
 強く握られた指が紅色に染まっていたものの、言わなければ分からない程度だった。
 高木氏はスマホで店長と話しているようだったし、運転手さんはごく一般的なタクシーがギリギリ通れるほどの狭い道を細心の注意を払って車を動かしている感じだった。
「初めまして、香川教授、田中先生。店長の阿部と申します。直接お会い出来て光栄です。
 ゆっくりと寛いで頂きたいのはやまやまなのですが、予想以上にお客様が集まって下さいまして……。前倒しで始めさせて頂くということで宜しいでしょうか」
 先程まで準備に忙殺されていたのだろうか、広い額に汗を浮かべて――まるで手術室に初めて入った研修医のように――内心でパニックに襲われている感じを受けた。
「阿部店長、指示には従って貰ったんだよね……」
 高木氏の鋭い声が――こちらが内部向けの声なのだろう――飛んだ。
「はい。それはもちろんです。それでも店の前は長蛇の列で……。店員が誘導していますがそれでも焼け石に水といった感じなので……」
 焦った声も途方に暮れた感じが強かった。
「分かりました。私が陣頭指揮を執って宜しいですか?先生方のお相手をお願い致します。
 それから、これがお約束の本です」
 阿部店長に100冊の本が入った紙袋を丁重な仕草で渡した高木氏は店長の「宜しくお願いします」という声にジャケットを脱いで勝手知ったという感じで書店の従業員用のドアへと消えた。
「いやあ、不手際をお見せして申し訳ないです。人数の予測が甘かったことを深くお詫び致します。君、こちらの本をB列のお客様に配るように」
 割と若い店員さんに高木氏から託された本を焦った感じで、ただ書店員らしく丁寧な手つきで手渡している。
 B列というのはサイン本だけを欲しがっている人だけが並んでいるのだろう、多分。
「大変そうですね……」
 祐樹が場を取り成すような感じで微笑みを浮かべて阿部店長に声を掛けている。
「はい、実際のところこんなにお客様が集まって下さったのは弊店始まって以来のことで……。店長室で写真を撮った後に直ぐに会場にお入り頂けたらと思います」
 写真……店長を囲んで三人で撮るのかと思いきや、店長室に案内されると小ざっぱりと片付けられた室内に書店のマークが大きく入った社旗とでも言うのだろうか、その前に祐樹と並んで写真を数枚撮っただけだった。
 自分としてはその方が嬉しかったが。
「飲み物は会場の方に運ばせてありますので、適宜お飲みくだされば幸いです。
 本当は社員たちと並んで撮影をと思っていたのですが、お蔭様で猫の手も借りたいほどの忙しさなもので。急かせてしまって申し訳ないのですが、今から会場の方へと入って頂ければと思います」
 内心テンパった感じの阿部店長の後に付いて歩みを進めた。祐樹が自分にだけ聞こえるような大きさの声で「何だか人気のある芸能人にでもなったような気分がします」と笑いを含んで囁いてくれた。それに完全同意の頷きを返して目と目で笑い合った。
 会場に通じると思しき扉を阿部店長が開け放つと、二人して驚きのため息を零してしまっていたが。












 
【お詫び】
 リアル生活が多忙を極めておりまして、不定期更新になります。
 更新を気長にお待ち下さると幸いです。
 本当に申し訳ありません。
 お休みしてしまって申し訳ありませんでした。なるべく毎日更新したいのですが、なかなか時間が取れずにいます……。
 目指せ!二話更新なのですが、一話も更新出来ずに終わる可能性も……。
 なるべく頑張りますので気長にお付き合い下されば嬉しいです。
 




        こうやま みか拝