「昼食に呼んで頂き有難う御座います。我々内科医は患者さんからこんなに感謝されることがないもので……。
 いつも豪華版ですね。お相伴に与れることを光栄に思います」
 患者さんから差し入れの昼食が届いた――「予告すると謝絶される」というのは歴代患者さんの暗黙の申し渡し事項になっているらしく、午前の手術が終わって執務室に帰れば唐突というか突然に届いている――優先順位は当然ながら祐樹が断然トップだが、今日は文学部英文学科の講師を務めている、国籍は日本ではあるもののアメリカでの暮らしの方が長いという人に、完成原稿を暗記済みの祐樹が発音の最終チェックの特別レッスンが入っていたことは知っていたので誘うのは諦めている。
 何しろ学会レベルに限って言えば英語が不自由な教授というのは学部問わず存在するし、そういう人へのレッスンを一手に引き受けている人なので突然キャンセルなどは非礼過ぎるだろう。
 少し見ないうちに貫録が増した――主に腹部から来る印象だろうが――内田教授の温和な笑顔に微笑みを返した。視線の先には、尊敬めいた光と驚嘆めいた感じを浮かべる内田教授の温和な笑みが――凱旋帰国から病院内で「そういう」視線で見られるのは慣れてきた積もりだったものの、表情筋を動かすこととかその他思いついたことを実行している今は格別に感嘆めいた眼差しを浴びせられることが多くなったのも事実だった。
「いえ、こういう食事を一人で頂くのは却って物寂しいものが有りますよね。
 病院の食堂から届けられる日替わり定食ならともかく……。ご一緒して下さって有難う御座います。わざわざお呼び立てしてしまってすみません」
 執務用のデスクから応接用のスペースに移動しつつそう告げると、内田教授は何だか眩しいものでも見るような感じで自分の方を眺めている。
「どうぞ、お掛け下さい。お茶が冷めないうちにどうか召し上がって下さい」
 自分の医局での貢献度が非常に高い黒木准教授ではなくて内田教授を選んだのは彼にまず相談をと判断したからだった。
 何しろいかにも患者さんから頼られるような誠実さに満ち溢れている温和そのものといった外見とは裏腹に病院改革の闘士としての裏の顔を持ち合わせていることや、医局内クーデターを見事に成功させた手腕とか統率力は――こう言っては大変失礼かもしれないが――白河教授などの拙さとは対照的だったので。
「来年のことを言えば鬼が笑うと言いますが……」
 内田教授が自分に期待をしているのは薄々だが知っていた。当時はそんな面倒なことを引き受けたくはなかったので完全に無視をしていたのだが、祐樹を教授職に就けるという野望に目覚めた今はその期待に応えるしかないのも事実だった。
 自分が退職すれば一番早いのも事実だが、そんなことをすると一番悲しむのは多分祐樹本人だろう。祐樹が納得して教授職の就くには自分が病院長に昇進した場合だけだろうし。
「鬼が笑うようなお話しなのですか?
 私はてっきりご本の話しかと思っておりましたが」
 若干怪訝そうな感じの温和な笑みが返ってきた。病院長命令がなくとも内田教授は祐樹と自分の本のために動いてくれることは確実だったので、それが病院ぐるみの運動となっている今、内田教授も水を得た魚のように動いてくれていることは院内メールで知っていた。
「その件については誠に有難う御座います。
 サイン会に非番のナースだけではなくて、仕事上がり先生方やナース達も順次投入するというアイデアまで出して下さって本当に有難う御座います。本の購入代金も医局で負担して頂けることも……。損にならないですか?」
 夜勤とか準夜勤など大学病院の勤務シフトはほぼ24時間体制で動いているのは周知しているが、仕事帰りの人間――勤務時間中に、いわば給料を出した上でのサクラというウイン・ウインな関係でない人達まで巻き込んでしまうというのはいささか心苦しかったものの――まで動員して貰えるのは本当に有り難い。
 そして経費節減に余念がない大学病院の現状を考えてみれば、その有り難さが身に沁みて嬉しかった。
「いえ、香川外科には及びもつかないとはいえ、ウチもそれなりの黒字運営ですのでお気になさらないで下さい。
 それはともかく、鬼が笑うとか仰った話しを伺いたく思います。
 私などは――まあ、最終的に顰蹙を買うとはいえ――患者さんは待ってくれますけれど、教授はそうではないでしょうから」
 確かに内科と外科では――特に執刀医を務めていると――その点の事情が大きく異なる。
「ここだけの話しなのですが、病院長のポストを目指してみようかと思うようになりました」
 ソファーから――比喩ではなく――飛び上がった内田教授は「驚愕」というタイトルの付いた絵画が有ればそれはまさにこんな表情になるだろうと思えるような表情を浮かべている。ムンクの「叫び」からの連想だったが。
 凱旋帰国からこれまでの自分の病院内での言動をつぶさに見ていれば――そして内田教授などはその筆頭格だろう――出世欲がないことは一目瞭然だっただろうし、驚かれるのも尤もだろうと思って内心で苦笑してしまった。
「……それは、大変有り難い御決心です。いえ、大英断と表現したほうがしっくりくるかもしれませんが……。個人的にはご聖断と呼んで差支えはないです」
 心臓の辺りを押さえながら――個人的にはバイタルが気になってしまったが、内科とはいえ心臓の専門医なので自己判断は可能だろう――今度は歓喜に満ちた感じの笑みを浮かべている。マフラーを手渡した夜の祐樹の笑顔もまさにそんな感じだったが、そもそも――こう言っては大変失礼だが元々の顔立ちという先天的な条件が全く異なってしまっているので――祐樹のような太陽神の輝きのような感じではない。ただそんなものは望んでもいなかったものの。
「可能でしょうか……?もし可能ならば、可能性を高めるために何をすれは良いのか御教示頂きたくてお呼び立て致しました」
 院内政治にも積極的な内田教授――あくまでも内部の視点で病院内改革を進めたがっていることは以前から承知していたし、陰ながら自分の出来る範囲限定で協力はしてきた――だけに彼の判断やアドバイスが一番的確だろうと判断していた。
 だから黒木准教授ではなく内田教授を選んだのだが、冷静な「政治家」でもある彼の判断はどうなのかと内心固唾を飲んで答えを待った。










 リアバタに拍車がかかってしまいまして、出来る時にしか更新出来ませんが倒れない程度には頑張りたいと思いますので何卒ご理解頂けますようにお願い致します。
 
【お詫び】
 リアル生活が多忙を極めておりまして、不定期更新になります。
 更新を気長にお待ち下さると幸いです。
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        こうやま みか拝