ただ、今日の手技が――考えたくないが――万が一にでも外科医としてはある意味当然の黒木准教授のシビアな判断で「術者変更」を言い渡されても優先されるべきは患者さんの命そのものなのは確かだ。強行してしまって取り返しのつかない事態になった時の方が最愛の人の精神的なダメージ――何しろあれだけ膨大な執刀数で術死ゼロの金字塔の数字の持ち主だ――は甚大だろう、それこそ現役の外科医生命を絶ってしまいかねないほどに。
 その時には職業的というか公的な「外科医としての矜持」を根本から打ち砕かれてしまうと最愛の人の精神だけでなく赫々と輝く名誉とか権威も傷付いてしまう。
 祐樹とプライベートな関係性は時間と共に深まったことも実感しているし、最愛の人がアイツにレイプもどきのことをされたのがもっと早い時期だったら最愛の人は黙って祐樹から離れるとか……最悪命まで絶ってしまいかねないほどの衝撃だっただろう。祐樹の前でこそ奔放に乱れてくれるが、それは相手が祐樹だからで純潔とか貞操という観念を頑なに持っている人だ。
 望まぬ行為とはいえ――そして思い返す度に背筋に絶対零度の恐怖と怒りがこみ上げてくる、アイツに対して――肌を許すという行為自体が最愛の人にとっては「自分で自分を許し難く」思っていたし、実際厚労省の当時のナンバー2に唇を奪われた時ですらあれほどの狼狽振りだったので、あの時のような祐樹だけが「確か」だと思い込んでいた愛の時期でなかったのも不幸中の幸いだったと言える。
 プライベートな問題は時間をかけて再構築していくしかないし、多分最愛の人は精神が許しても肢体が「あの時」のことを想起してしまって、精神もそれに引き摺られてしまうだろうことは想像に難くない。純粋で無垢な精神性を――あんなに濃厚な愛の夜を重ねてきたというのに――保ち続けている人なので。
 手技は――密かにイメージトレーニングはしていた――祐樹が交代して成功させても、このスタッフなら絶対に口外しないだろうし、その上呉先生の診断書には「三ヶ月は手術不可能」と書いて病院長に提出済みで、その間に徐々にでも快復してくれるのを最悪の場合は待つしかない。
 皆が普段よりも更に張りつめた感じで黙々と準備を進めていくのに倣って祐樹も身支度を済ませた。
 「手術前カンファレンスの件は柏木先生から聞くように」との准教授命令だったが、分かりやすいレジュメと、そして何より術式自体も――多分黒木准教授が患者さんの順番を入れ替える時に考慮の一環にしてくれたに違いないが――数日前に最愛の人が行ったのとほぼ同じなので指や頭で既に覚えているので、万が一の、そして最悪の事態でもある術者変更に対応出来る自信は有った。
 所定の位置に背筋を伸ばして、そして消毒済みの手術用手袋をはめた後だったので手は高く上げたまま、執刀医の入室を待つ。
 普段なら一分もかからないし、その間は平静さを保つように努力すれば良いだけの時間だったが。
 その一分が永遠のような感じで、そして手術スタッフ全員が何かを祈るような重々しい静けさに満ちた緊迫した時間だった。
 専用のドアが開いて手を祐樹と同じように上げた最愛の人が凛とした静かさを浮かべた表情と、そして露出の多い手術着なだけにメスの切り痕も生々しい肌がとても痛々しく感じた。背後に手術着姿の黒木准教授を従えているのは予定通りだったが。
 手術台に横たわった患者さんを一瞥して、怜悧な瞳に僅かな狼狽とか気後れめいた光が宿った。
 手術スタッフは極力目を向けないようにしている――そのように黒木准教授から強く指示が有った――ので分からなかったかも知れないが、祐樹にはクッキリと見えてしまい、瞳に渾身の力を込めて最愛の人の目を直視した。
 大丈夫……怖がらないで下さい。平常心を保てれば絶対に大丈夫です。太陽のオーラが届きますように。
 そういった意味を込めたアイコンタクトを二十秒ほど交わすと、最愛の人が微かに頷いて怜悧で落ち着いた感じの瞳の煌めきに変わっていく。
「手術を始めます。バイタルは」
 落ち着いた凛とした声が手術室に響くと、スタッフ達から声にならない歓喜の雰囲気が溢れ出るのを肌で感じた。
 祐樹は――自分でもこんな精神状態になるとは思っていなかったが――恐る恐るといった感じで最愛の人のメスを握る予定の指に視線を合わせた。
 恐怖と祈りの混じった眼差しの先には「震えていない」指が揺るぎなく存在している。
 床に崩れてしまいそうな安堵の気持ちで最愛の人の指とそして怜悧さの際立つ端整な容貌を力付けるように眺めた後に指示を待つ。
「バイタル異常有りません」
「麻酔完了しました」
 スタッフ達の普段よりも緊張した感じの強張った声が手術室に響いた。
 祐樹としては――非常に気持ちは良く分かるものの――もう少し落ち着いた声を出して貰えないだろうかと心の中で注文を付けたが。
「では開胸に入ります。メス」
 道具出しの看護師――ちなみに柏木先生の奥さんだ――がツバメのような速さと正確さで祐樹最愛の人にメスを渡す。
 それをしっかりと受け取って、淀みも迷いもない指先が流水の流れるような繊細さと滝のような大胆さで精緻かつ巧みに動く。
 手術用の大きなマスクで隠された祐樹は密かに安堵のため息を零してしまったが。
 第一助手の務めをこなしながら――同時に何かをするのはもう慣れっこになっているので集中力が途切れることもない――お目付け役のように佇んでいる黒木准教授の表情を窺った。
 最初のほうこそ普段の温和さではなく厳しい外科医の表情と内心の緊張――多分祐樹が懸念した「公的」な部分は同じ思いだったのだろう――が透けて見える表情だったが、手術が滞りなく、しかも普段と同じ寸分の狂いない正確さと目まぐるしいまでの早さで進行するにつれて普段の温和さに戻っていく。隠せない疲労が滲んでいる程度で、マスクで覆われた口元は見えないのは当然だが、多分安堵の笑みを浮かべているだろうと思わせる表情だった。
「手術、無事完了しました。何か気が付いたことがあれば仰って下さい」
 鮮やかな手技とその終了の言葉は普段通りの怜悧さに満ちていたが、最愛の人のその言葉を聞いた黒木准教授が「香川教授、お帰りなさい。見事な手技でした」と感極まった感じで声を掛けたのを切っ掛けに、皆が歓喜の声を上げたり、涙を流したりしている。
 祐樹は最愛の人の少しだけ緊張の色を孕んだ眼差しに「お見事でした」という思いを乗せて瞳を光らせた。
 身体が安堵の余り床に崩れ落ちそうに、いや、歓びの余り皆とハイタッチをしたい気分や最愛の人の傍に駆け寄って抱き締めたい衝動などが次々と溢れ出て自分が何をしたいのかすら分からなくなる。
 普段は患者さんが手術室から運び出された瞬間に快い感じに弛緩した空気が漂う手術室だったが、今日だけは「香川教授の無事帰還の祝祭」とでも言わんばかりに、皆が声に出したり、大袈裟なジェスチャーでブラボーを形作りながら涙を零したりしている。
「患者さんを運び出して下さい」
 気持ちは充分分かったし、この祝祭を長引かせたいのは祐樹も同じだったが、患者さんが最優先されることは言うまでもない。
「はいっ」
 我に返った感じのスタッフが患者さんを乗せたストレッチャーを押して手術室から出ていく。その背中にも歓喜の情で弾けるような感じを漲らせながら。
「お疲れ様でした。……素晴らしい手技で……」
 胸の中には溢れているたくさんの言葉が、声にならないという歓喜が極まるとこうなるのだろうかと思いながら最愛の人の手術用手袋越しに握手を求めた。
「有難う、ゆ……田中先生」
 震えていない手を握って、安堵と満足の視線を絡めあっていると後ろで盛大な拍手が起こった。
「我らが香川教授、万歳!」
 柏木先生が疲労など吹っ飛んだような笑顔で音頭を取り皆が祝福の声を掛けてくる。その歓喜に満ちた祝祭のことを、祐樹は一生忘れないほどの万感の想いを込めて心に仕舞った。
                            <了>











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        こうやま みか拝