「それは……。あくまでも可能性の域を出ないと田中先生が判断していたからで、この件に関しては精神異常者という極めて特殊かつ配慮が必要だったこともあり、黒木准教授まで巻き込んでしまうと後々マズいと判断したからなのではないですか。
 黒木准教授のご尽力で何とかなると考えた場合、田中先生は迷わず相談しますよ。
 それにこの件は、私ですら打ち明けて貰っていなかった――いえ、事前に知っていたとしても結果は変わらなかったと心の底から思います――のですから」
 淡い笑みを浮かべてフォローに回ってくれた最愛の人の手は幸いなことに震えていない。
 手術室へ続く廊下を三人で肩を並べて歩いていたが――そして病院の習慣通り一番偉い人間が真ん中を歩くという点はその通りだった――ただ、祐樹は最愛の人にさり気なく手の甲が触れるようにと黒木准教授の反対側を歩いていた。教授総回診などでは「一番前」という慣習を「一応」守っている最愛の人が内心では順番などどうでも良いと思っていることも知っていたし、並んで歩く――まあ、普段は祐樹の方が遠慮して一歩下がって歩んではいた――ことにも全く抵抗がないのは言うまでもない。
 それに病院の玄関という最初の関門――普段だったら事もなげに通るだろうが――今の最愛の人には病院関係で心因性の手の震えが起こりやすいのはこの二日間で良く分かった。
 公園で甘えん坊の由美子ちゃんとか無邪気なキョウ君などと接している時の最愛の人は普段以上に寛いだ感じの無垢で涼しげな笑みを浮かべて丁寧に対応していたし。
 森技官が呉先生の意を汲んでどんな強烈なクレームを斉藤病院長に入れたのかは知らないが、この件で一番の功労者は間違いなく彼だろう。今までは単なる「ケンカ友達」だったが、これからは「信頼出来るケンカ友達」に格上げをしようと心の底から思った。まあ、相性が良いとはお世辞にも言えないので実際会えばまた口ゲンカは始まるだろうが、感謝の念が根底にある「ケンカ友達」という存在が居ても良いような気がする。それに森技官も祐樹の反応をある意味喜んで買ってくれる口ゲンカなので、掌を返したような対応をする方が彼の意に沿わないような気がした。
 最初の関門は難なく突破したものの、次は患者さんの前に出る時が問題かもしれないと思ってしまう。
 手術室の張りつめた空気とか独特の物々しい雰囲気や手術を待つ患者さんの前に実際出た時にはどうなるのかは未だ謎だった。
 その瞬間は、ある意味水に飛び込む直前の気持ちに似ている。飛び込んでしまえば後は泳ぐだけだが――最愛の人も祐樹もさして水泳に興味を抱いていなかったものの金槌ではない――その前の一瞬は「本当に泳げるのだろうか」とか色々なことを考えてしまうのが人間だし、感情表現が豊かでないとはいえ、最愛の人に感情がないわけではないことを祐樹が一番良く知っている。
 この手術を上手く、そして彼自身がイメージしているのと寸分違わずに手が動くだろうかなどと考えてしまうと手に震えが出て来そうな気がする。
「普段通りの貴方で居て下さることを望みますが、背後には優秀な部下が居ることを心に銘記しておいて下されば幸いです。では、手術室で」
 人の気配がないことを幸いに手の甲を強く押しあてて、強いて励ますような光を瞳に宿らせて最愛の人の怜悧さと無垢さで煌めく瞳を見下ろした。
 この先は教授専用スペースで――本来ならば黒木准教授すら入れない―ある意味「聖域」めいた場所だ。
「分かった。人事を充分尽くしたので、後は天命を待つだけだ」
 「祐樹のお蔭で」と言いたげな饒舌な瞳の煌めきは冷静さに満ちていた。そして感謝の念にも。
 強く押しつけ合った手の甲だけで揺るぎない愛と信頼のサインを密かに交わし合う。
「脳外科は手術延期の大混乱で、そして悪性新生物科の教授執刀はない予定ですので、教授用の控室は香川教授お一人が使える場所ということになります。ま、私もおまけで付き添いますが」
 黒木准教授が「心配するな」という感じの視線を最愛の人と祐樹に送ってきた。
 脳外科は手術どころではないのも聞いていたので知っていたし、悪性新生物科は手術室の魔人とも呼ばれる桜木先生の独断場なのだろう。ただ、当然ながら桜木先生も教授控室には足を踏み入れる権限は祐樹同様持ち合わせていない。
「では、私はここで失礼します」
 立ち去り難い思いではあったものの、最愛の人に全てを託した患者さんの命が掛かっているのだから、今の祐樹が出来ることは黒木准教授の「術者変更」という最悪の声が手術室に響いた時に即座に交代してつつがなく手術を終えることが出来るように――実は内心で最愛の人の手技に倣った、そして同じ術式をイメージトレーニングは充分済ませていた――心の準備をすることだけだ。
 そんな事態にならないように心の底から神様に祈りつつも。
 キリスト教徒が十字架を手に祈るように、最愛の人の手の甲だけではなくて、細く長い指をそっと握って最後の祈りを捧げた後にそっと手を離した。人の気配が全くない――ただどこもかしこも入念に磨き上げられている――教授しか入れない神聖な場所を後にした。
「よ、重役出勤お疲れ様」
 手術控室に入ると妙にハイテンションな柏木先生の声が迎えてくれた。
 ただ、彼の場合は疲労がピークに達するとこういう状況になるのは救急救命室勤務が共に長い祐樹にも分かっていたので苦笑するしかない。
「いえ、皆様こそお疲れ様です。そしてご心配をお掛けしました」
 控室に居た皆が祐樹に対して物問いたげな表情とか心配の眼差しを向けているのは病院の至宝とも呼ばれる最愛の人にずっと接してきたのが祐樹だけ――呉先生も居たが外科医ではないので――だからだろう。
「で、どうなんだ?教授の容態は……」
 救急救命医に最も向いている――つまりはある意味怖いモノ知らずの――柏木先生が恐る恐るといった感じで聞いてきた。
 他のスタッフ達も一様に疲労の表情を浮かべた顔で、しかもお通夜にでも参列しているような神妙そうな感じで祐樹の顔を窺っている感じだった。
「今のところは手の震えも治まっています。
 ただ、手術室に入室した後にどうなるのかは予断を許しませんが。ただ、第一の関門でもあった、病院の正面玄関を通る時に――密かに危惧はしていたのですが――も手の震えは出なかったのも事実です。なので」
 柏木先生が安心した感じで祐樹の背中や肩を叩いて来る。
「分かっているって。視線だろう、問題は。それは黒木准教授からも散々注意されているので大丈夫だ。
 正面玄関な、最初は病院長がお取り巻き達のお偉いさんと出迎える積もりだったらしい。少なくとも昨日の段階ではそうだった」
 柏木先生の言葉に背筋が震えた。病院長室に集められた人間で最愛の人が心を許しているのはアメリカから連れ帰った長岡先生と最愛の人の存在がきっかけで啓蒙、発奮して院内クーデターを完遂させた内田教授だけだろうし、それ以外の人に仰々しく出迎えられたのでは却って手の震えが出かねない。
「それが厚労省の局長を出すのも厭わない感じで、強烈なクレームが厚労省の室長様から入ったらしくてだな、腹黒タヌキが真っ青になっていたとか長岡先生が教えてくれた。
 厚労省には恨みしかないが、その室長様の配慮には正直感心したよ」
 室長の上司が局長なのは知っていた。森技官単体でも斉藤病院長に対して心胆寒からしめることは出来そうだが、敢えて森技官は上司まで――どうせ弱味の一つや二つ握っているのだろう――引っ張り出してのクレームという荒業というか離れ業を使ってくれたらしい。呉先生の意を汲んだ上で最愛の人にも「心が平穏な状態で」手術に臨めるように。
 柏木先生作成らしいレジュメに目を通しながら話を聞いていた。手術前カンファレンスを執刀医抜きで行うなど異例中の異例だが、黒木准教授のきめ細かい配慮の賜物だろう。
 このスタッフなら余計なことは言わないと信頼出来る人間ばかりが集められているのも。
 後は手術室の物々しい雰囲気に最愛の人の辛うじて立ち直った精神が耐えられるかどうかだろう。
 耐えて欲しいと心の底から祈りを捧げた。この手術で最悪の術者変更を告げられると、最愛の人の――血のにじむような努力に相応しい――外科医としての矜持が折れてしまいかねないので。












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        こうやま みか拝