『こんばんは、呉です。教授今お時間宜しいですか?』
 呉先生のスミレ色の軽快な声が何時もよりも鮮やかな感じで聞こえた。これほど上機嫌な感じの声は聴いたことがないので森技官が紹介してくれるハズの出版プロデューサーの話しだけではないような高揚感に包まれる。
 それに11万部はほぼ確定した今はそれを二桁伸ばす手伝いをしてくれる人が存在すればそれだけで百万部よりもゼロの数が一個増えることになる。
 権威か金銭的利益かのどちらかが有れば必ず動く斉藤病院長には充分過ぎるほどの「餌」だろう。祐樹が防衛大学に出張扱いで――いや溜まりに溜まった有給休暇でも文句はないようだが――大学病院を留守に出来るほどには。
「はい、大丈夫です。そもそもこちらがお願いした用件ですよね?折り返しお掛けしましょうか」
 呉先生のスマホの契約状況によっては、通話し放題の自分の電話から掛けた方が良いような気がする。ただ、職場恋愛の祐樹と自分――だから電話で話すことは滅多にない――と異なって森技官は出張も全国規模なキャリア官僚という職務上、電話の機会も多いような気もするが。
『いえ、大丈夫です。通話し放題の契約なので。
 まず出版プロデューサーの件なのですが、何しろアポが分刻みで入っているような人らしくってですね、東京ならば隙間を見つけて時間を捻出することは出来るものの、京都や大阪に行く時間は到底取れそうにないとのことです』
 あいにく――といっては大変現金な感じだが、月に二回ほど行く――厚労省への出張もこの間済ませて来たばかりだし、こちらも動けそうにないのだが。ただ呉先生の口ぶりは全く残念そうでないのが救いだった。割と喜怒哀楽が声に出てしまう人なだけに。
「東京ですか……。厚労省詣でをする二週間後くらいしか上京する予定はありませんが……」
 確かに出版業界――といってもそんなに詳しくはないが――の大手は皆東京が本社だし、京都在住の有名作家も居ないでもないが、ほとんどが東京住まいだと何かで読んだことがある。
『ええ、その話は同居人から聞きました。それでですね、スカイプIDを取得済みでしたら、そちらでお話しする分には構わないということなのですが?出版業界なだけに今は仕事中で……、終わるのが12時で、それ以降はフリーだそうです。ただ銀座だか六本木だかに呑みに繰り出すらしいですが……。教授や私にとっては真夜中なのですが、業界が異なると生活時間も違うらしくてですね……』
 どうやら森技官経由でかなり詳しい話しをしているような感触で、しかも余り活用はしていないもののスカイプもIDだけは取得済みだったのが幸いだった。
 何だか夢のサイン会に一歩近づいたような気がして思わず先程まで幸せな手作業をしていた――まだ仕上がりの目途すら立っていない――贈り物を幸福な気分で眺める。
「IDは持っています。私が12時過ぎに東京の人に連絡すれば良いということですね?」
 規則正しい生活を心がけてはいたが、この際例外を作っても良いだろう。大型書店の雛壇で祐樹と並んで座る機会などこのチャンスを逃すと一生なさそうな気もしたし。
 執刀医としてメキメキと頭角を現した祐樹だったし、この調子でキャリアとスキルを積めば充分国際公開手術の術者として招待されそうな感じだが、ベルリンで行われた自分の時と同じで「術者」と「観客」という関係性に過ぎないのでそれほど一体感は得ることは出来ないのも経験上知っていた。自分はさほど興味もないが、熱狂的なサッカーでも野球でも何でも良いが、プロとして活躍する選手を応援する観客がどんなに熱く応援しても勝敗には殆んど影響がないのと同じようなものだろうか。
 それに森技官も好意で仲介はしてくれた感じだったが、先方もプロなのでそれなりの対価は発生するのは当たり前の話しで、当事者同士の話し合いは絶対に必要だろう。
『持っていらして良かったです。では通話終了後メールでお送りしますね、IDは。
 それと、同居人も地震の時の行動で――本当は単独行動で上司の指示ではなかったのですが、結果オーライというか得意の弁舌で済し崩し的にうやむやにしたらしいですが――省内でもよりいっそう株を上げたらしくて『省始まって以来の初の独身事務次官の座』に大きく一歩を踏み出せた御礼にと、全国の大学病院に発破をかけて、各病院によって対応が異なるらしいですが、まあどう異なるかは多分ご想像の通りだと思います』
 呉先生の声は苦笑交じりだったので、大体は自分でも分かる。弱みを握っている病院長にはその弱点につけこんで、それ以外の「良い人」の猫を被っている関係性の人には理路整然と「この本の大切さ」を説いてくれるのだろう。
 確かに森技官は目標のためなら手段を選ばない性格だが、根本的には良い人なのも知っている、好意を抱いた人間には。
 そしてその「好意を抱いた」人間のリストに自分も祐樹も幸いに含まれている。
 何だか良い方に良い方に転がるこの共著の話しは祐樹と自分の未来を象徴しているような気がしてならない。
 青と紺色と白の混じった「贈り物」の未完成品をこの上もない満足感で眺めて薔薇色の感慨に一時耽ってしまう。
『一番話しが通しやすい旧国立大学――もちろんウチは省いてですが――各一万部は堅いとのことです。公立大学も多分同じ程度には買ってくれるように働きかけるそうです』
 旧国立大学の数は当然知っていて42校で、それだけで42万部……何だか薔薇色の目が眩みそうな数字が脳裏を過った。
「え?それほどの数ですか?お心遣いは大変嬉しいのですが、そして出来れば直接御礼を申し上げたいと思います」
 森技官の純粋な好意には深く頭が下がる思いで、後ほど日を改めて御礼に行くのは当たり前だが一言だけでも感謝の気持ちを伝えたかった。
 ただ、次に出た呉先生の言葉に椅子から飛び上がるのではないかと思うほどびっくりして声を失ってしまった、良い意味で。











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        こうやま みか拝