「あ、あのう……香川教授……」
 定時上がりの職員用通用口で控え目な――というより蚊の鳴くような――綺麗な声で名前を呼ばれて振り返った。
「ああ、岡田看護師ですか。今帰宅ですか?」
 最近は表情筋の動きも良くなったと祐樹に褒められた「仕事上」の淡い笑みを浮かべた。
 白衣姿ではなく私服なのでその程度のことは分かる。
「はい。今日は珍しく定時に上がることが出来ました。久米先生との件で柏木先生ご夫妻までお手数をお掛けいたしまして本当に有難う御座います。個人的なことなのに、そこまで親身になって頂いて本当に感謝しています。
 直接御礼を申し上げるのが遅くなって誠に申し訳ありません」
 深々と頭を下げられて――しかも相手は祐樹が付けたあだ名のアクアマリン姫という表現が主観的にも客観的にも的確過ぎるほどの可憐な美人さんなので――周りの目も気になって内心狼狽えながらも淡い笑みだけは崩さないことに何とか成功しているような自覚はあった。
「宜しければ今からご一緒にお茶でも致しませんか?何でもこの辺りに穴場が有ると聞いた覚えが」
 この場から立ち去りたい一心でそう告げたのに、岡田看護師は心の底から驚いたように清楚な感じの強い目を大きく瞠って微動だにしなかったので内心困り果てた。祐樹が居れば難なくこの場を切り抜けるだろうが、あいにく今夜は救急救命「センター」勤務だ。
「貴女の科の元研修医のことを田中先生に教えて下さったという話は聞いています。その喫茶店にでも参りませんか?御礼を兼ねて……」
 この辺りの飲食店のことは全く分からない――八百屋さんや魚屋さんなら何軒も頭の中に入っているが――ので、祐樹から聞いた彼女と話し込んだという喫茶店に案内してもらうしかない。そもそも彼女が祐樹に脳外科の頭のおかしい研修医のことを話してくれなければ、もっと被害は甚大になっていただろう。それを考えると御礼を言うのはこちらの方だった。
「はい。ではご案内致しますね」
 淡いピンクの唇が綺麗な――久米先生が彼女に夢中なのも良く分かる、あくまでも客観的に――笑みを浮かべて軽やかに歩きだしたので、心の底から安堵した。
 彼女しか道を知らないので当然なのだが、先に立って歩く久米先生絶賛のウエストラインとはこういうものか……などと医局の中で漏れ聞いた話とか祐樹がマンションで話してくれた内容を意味もなく確認しながら後ろを歩いた。
「まさか香川教授に誘って戴けるとは……申し訳ありません、却ってお気を遣わせてしまいました」
 驚いたように出迎えた喫茶店のマスターは多分自分の顔を知っているのだろう。京都の人間で地震の時――停電していなければ、だが――テレビを観ない人は稀だろうし、災害時に最も視聴されるのがNHKなので当たり前と言えば当たり前なのだが。
 向かい合ってテーブルに座ってもまだ謝り続ける彼女の気分を変えようとメニューを手渡した。
「お好きな物を頼んで下さい。あの時ウチの田中に協力して下さった御礼です。貴女の勇気のある内部告発がなければ、私の外科医生命も終わってしまうような出来事でしたから」
 今となっては笑い話に出来る自分の強さはきっと祐樹が与えてくれたものに違いない。
 メニューをいそいそとめくる華奢な指にはアクアマリンの指輪が清涼な煌めきを放っている。
「そんな……香川教授にそう仰って頂けるほどのことは致しておりませんし。それに『病院の至宝』の名前に傷を付けるようなことにならなくて何よりでした」
 アクアマリンそのもののような笑みを浮かべている目の前の彼女の控え目な態度に「同じ医療従事者としての」好感を抱いた。これなら久米先生とも上手く行くだろうなと。
 祐樹にダメ出しを何回も食らった後に――何でもメノウとかサンゴとかを考えていたらしい――やっと選んだ宝石だと聞いている。というか、祐樹がアクアマリン姫とあだ名を付けたのだからその宝石を何故選ばないのかイマイチ良く分からないものの、久米先生には久米先生なりの拘りでも有るのだろうか?
 メニューを全部見た後に「ホットコーヒー」と無難なセレクトをする女性は一般的なのかどうかもまるっきり分からないが、ホットコーヒーを二つ頼んだ。
「柏木先生ご夫妻の説得で久米先生のご両親も納得して下さって……本当に有難う御座います。柏木先生とは同級生でいらっしゃったのですよね?そこまで良くして頂いて本当に有難う御座います」
 また深々と頭を下げられたが、彼女が心の底から感謝している程度のことは分かったので自然と笑みが深くなる。
「いえ、その件も田中が考えたようなものですから。私は単に話を繋いだだけで……。それに医局員の幸せを考えるのも上司の務めの一部だと考えていますので、そんなに気になさらず。
 強いて私から申し上げるとすれば、婚約指輪を買う時には一緒に宝石店に行かれるようにお勧めするくらいです」
 岡田看護師が宝石を選ぶのなら久米先生は唯々諾々と従うような気がしたし祐樹の無駄な労力も少しは減るだろうから。
「はい。久米先生はある意味とても純朴な方でいらっしゃいますから、そうさせて頂きます」
 「純朴」というキーワードに該当するのは自分が知る限り一人しか居ない。あの涙ぐましい返信を寄越した野口陸士のことをぼんやりと考えてしまう。
 久米先生の場合はどこか――いや自分も他人のコトは言えないのは充分自覚しているが――ズレているだけだろうと内心で思ってしまう。
「田中先生にも本当に良くして頂いて本当に感謝しています。それに久米先生は兄のように慕っている様子が微笑ましいです。あの時田中先生に出会えて本当に良かったです、私個人は……」
 言い難そうに口を噤んだ彼女に「もう全て済んだことですから」と心の底から言える自分は祐樹の存在に何時も助けられているからだろう。
「もうすぐバレンタインデイですね。そういえば、先輩ナースがゴディバのお店に行って『田中先生お気に入りのチョコは販売していない』と困っていました」
 内心愕然としたのを彼女に気付かれていないだろうか?
 コーヒーを飲んでいる時ではなくて本当に良かった。彼女が何気なく漏らした言葉でコーヒーに噎せてしまうところだったので。











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        こうやま みか拝