自分の行きつけのブランドには敢えて寄らず――あの神様のプレゼントのような特別休暇の時には第一候補として考えていたが、祐樹には更に似合う老舗を見つけたので――「祐樹のためだけに」買い物をしたというささやかな充足感が季節とは関係なく春風に乗っているような気持ちだった。
 職員用の出入り口から入って――多分僅かな暇を見つけてタバコ休憩に来ているのだろう――顔見知りのスタッフ達が皆怪訝そうな顔でこちらを見ている。百貨店の袋ではなくて整っていると祐樹が褒めてくれる顔よりも上を。
 髪型のせいだと思い当たってどうしようかと一瞬考えてから――顔見知りなだけで知り合いレベルが居なかったのは不幸中の幸いだった――旧館の方へと向かった。不定愁訴外来は診察日だが時間が空いていれば呉先生の部屋で、患者さんと対応中なら人の気配のないこちらの建物のトイレの水で髪を後ろに流してから新館エリア――当然自分の医局員達もたくさん存在するし、患者さんだって居るのだから「普段着」に等しい前髪を下した姿を見せるのはごく限られた人間だけで充分だった――いくら祐樹用の買い物だけをして心が弾んでいたとはいえ、ノーネクタイや髪のことまで気が回らなかったのは我ながら迂闊過ぎたと反省しながら。
 不定愁訴外来のドアの前で耳を澄ますと話し声も聞こえず、その代わりに薫り高いコーヒーの良い匂いがほのかに漂っている。患者さんの居る前で呉先生はコーヒーを飲まない――まあ、それが医療従事者としては当たり前の姿勢だろうが――ので躊躇いがちにノックした。
「どうぞ?」
 スミレ色の穏やかな声が旧館の風情のある建物に相応しく響いた。地震の時に若干の損傷はあったものの、大規模な工事をするには至らないとの専門家の見立てを受けて壊れた場所だけを直して使用中だった。だから地震前とはほとんど変わっていない。
「香川です。急にお邪魔してしまって申し訳ありません」
 ドアを開けると更に芳香が心を穏やかにする香りに匂い立った。
「いえ、ちょうど患者さんの愚痴を聞き終えて、手が空いたところですから。いや、今回のは長かったです。透析の患者さんなのですが、インフルエンザなどの感染する病気を併発している患者さんのために存在する個室を使わせないのは病院の怠慢とかなんとか……。まあその患者はもともと鬱から来る攻撃性のクレーマー患者なので、そういう患者さんの対応はある意味慣れているので大丈夫なのですが。
 病院側に問題があるとは全く思いませんので正直『そんなに嫌なら転院しろ』なのですが、そう言ってしまうとこのブランチの存在意義を失いますので、延々愚痴を聞き続けるのです」
 以前心臓内科に入院中の患者さんが自分の手術を受けたいとダダをこねていたことを思い出した。あの時は誠実に対応した積もりだったが血を見るのが嫌いでなおかつ想像力が有り過ぎる呉先生にトイレに駆け込むほど嫌な思いをさせたことを思い出して友人に向ける笑みに曖昧さが混じってしまう。
「加藤看護師はお留守ですか?地震の時に彼女のツバメのような道具出しのお陰で、ゆ……田中先生の神懸かり手技が一瞬の遅滞もなく上手く行ったのでそのお礼を申し上げないとと思っていたのですが」
 呉先生は白衣に包まれた華奢な肩を残念そうに竦めた。
「彼女はあれだけ気持ちのいい道具出しが出来て、心も体も現役時代に戻ったようだと喜んでいましたので、お気持ちだけ伝えますね。今日は患者さんの予約時間オーバーが二件有ったので、彼女は今ランチ休憩です。あれ?教授のその髪型とか紙袋……もしかして今日は有給ですか?」
 呉先生も遅い昼食と思しきサンドイッチを幸せそうに食べながら――多分よほどお腹が空いていたに違いない――スミレのような可憐な眼差しで自分の姿を見つめてくる。
「いえ、今日は珍しく午後の手術がなかったものですから少しの間だけ病院を抜け出したのです。
 ただ、平日の昼間に百貨店に居るのがバレたらサボっていると看做されるとゆ……田中先生が言ってくれたので」
 促されるままに椅子に座ると呉先生は軽快な感じで立ち上がってコーヒーを淹れてくれた。
「ああ、地震の時ので一躍全国区ですからね。その点私なんて薬剤室に籠っていたので一切顔バレはしていないのが助かりました。
 地震の時といえば……清水研修医の抜擢有難うございました。本人も精神科に限界を感じていたようで、この前挨拶に来たときは本当に晴れ晴れとした顔をしていました」
 呉先生も病院のブランチを立ち上げる力の有る――そうでないと病院長はバッサリ切るだろう、そういう人だ――精神科医だが、ブランチの数も自ずから制限されるので清水研修医は真殿教授の元で不貞腐れながら働くか実家の病院に戻るという二択しかなくなる。それを救急救命室勤務という畑違いのゴリ押しが出来たのは地震のせいだった。
「ああ、清水研修医に連絡は取れますか?彼に伝授したい技も有りますので直近に連絡を取ろうと思っていたのです」
 救急救命室に行けば清水研修医には会えるだろうが――ちなみに自分の医局員ではないので連絡先を知る権限はない――教授を教授と思わない唯一の看護師でもある杉田師長にこき使われる可能性があった。普段なら助っ人でも喜んで引き受けるが、これから祐樹の居ない夜の時間には――床に置いた紙袋の中身を含めて――することが山積みなので出来れば避けたい事態だった。
「ええ、教授にならお教えしても構わないでしょう。ちょっとお待ちください」
 スマホに登録してあるのだろうが、そのスマホをタップしながら自分の動作を見て驚いた感じで可憐な目を見開いているのが不思議だった。












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        こうやま みか拝