「医師国家試験直前の息抜きのために、六法全書を読んだ記憶が有るので……。ただ、刑法はかなり改正されているので、詳しいことは杉田先生に聞かなくては分からないが」
 何でもないような感じで淡々と紡がれた言葉に唖然としてしまう。国家試験はペーパー形式だが、詰め込むべき知識量は暗記力に自信がある自分達でも「あの時は泣きそうだった」とかたまに愚痴をこぼし合うというのに「息抜き」のために全く異なる分野ではあるものの、やはり暗記力が必要なモノを選ぶのが彼らしいといえばそうなのだが、祐樹には発想すら出来ない。
『呉先生が、何故私と直に話したがったのかやっと分かったような気がするね……。
 恋人さんはとても切れ者のようだし、出世するタイプの人間のようだが。つまりは税務署とか口座を凍結――外務省関係から手を回したということは、厄介なお隣の国との関連付けをしてアメリカ辺りの然るべき機関にブラックリストに載せるとか、そういう動きをみせているということだろう。
 そして井藤元研修医の隠し資産が減るのは全く構わないが、病院のことも考慮に入れると厄介なことになる、そう考えたのだろう。
 民事訴訟は判決が下りるまで一年は掛かる、ある意味のんびりとしたものだからね。裁判員裁判導入後の刑事裁判とは異なってスピードは重要視されないし、せっつくようなある意味腹の据わった人間もいないしね』
 杉田弁護士の飄々とした声に医師国家試験直前の切羽詰まった想い出から現実に引き戻された。
「そうなのです。斉藤病院長はこちらの動きを全くご存知ではないし、それに香川教授の味わった……きょ……いや、嫌な経験はお金で償われるとは思わないのですが、病院長の意向も汲んで動かなくてはならなくなったので……。病院に所属している以上はそういうしがらみも出てきてしまいます」
 呉先生が華奢な肩を竦めてスミレ色のため息を零している。
 「きょ」は多分「恐怖」と言いたかったのを配慮してくれたのだろう。
「香川教授は具体的にどんな被害を受けたのかな?心中は深くお察しするが、聴かなければこちらとしても動きようがないので」
 軽やかな声の感じが、凍りつくような祐樹の内心もかなり救ってくれて、ずっと心を氷点下の熱さで苛み続けている心の痛みも何だか少しだけ緩和されたような気はした。あくまでも一時的なものだろうが。
 ただ、どう表現しようか言葉を頭の中で選んでいると最愛の人の唇が先に動いた。
「刑法上の逮捕・監禁罪には問えるかと……あくまでも素人考えで恐縮ですが。クロロホルムを主成分としたと思しき薬剤……いや今思えば独自のアレンジも加わっていたようですが……とにかく意識を奪われてしまって、気が付いた時にはどこかの家の中に連れ込まれていました。その時は見知らぬ男性だという認識しかなかったのですが、医学を正式に学んでいることは分かりました。メスを正確に腱と神経が集結している部分に当てられたので……正直気が狂いそうになりました」
 淡々と紡がれているのが逆に痛ましい。手の震えはどうだろうかと気になってしまうが、祐樹の視界に入らないように巧みに隠されてしまっている以上強引に見ることも憚られたので。
『確実に問えるだろうね。警察に被害届を出して、警官が『認知』してくれたのだろう?
 それにしても選りにも選って世界の香川教授の腕にそこまでするとは私個人としても許しがたいが家内の耳に入れたら家が住めるレベルではなくなるな。未遂で済んだのが何よりだ」
 ともすれば暗くなりがちな――祐樹を始めとする病院関係者はほぼ全てが同じ感想を抱くか、もしくは激怒に身を震わせるだろう最愛の人に降りかかった災厄中の災厄だが、杉田弁護士の口調は飄々としていてそれが逆に救いだったが。
 「認知」――多分この字で合っているとは思うが自信はなかった――という専門用語が出て来たので呉先生に戸惑いの視線を向けた。全体像を最も把握している上に森技官とも入念に打ち合わせ済みだろうから。
「被害届、ですか……」
 最愛の人が戸惑ったように――実際戸惑っているのだろう、被害届を作成中の時には薬で眠っていたのだから――視線を祐樹の方へと向けた。深山の木々に遮られた深淵の謎めきのような眼差しの光りだったので、今最愛の人の心中を慮るのは難しい。もどかしくもあったが、今聞けるような状況でもなかったので力付けるように微笑むしかなす術がなかったのも事実だ、情けないことに。
「そこいらの町医者の外科医であっても、その状況に置かれたら……お分かりですよね?
 ですから精神科医の端くれである私がドクターストップをかけたのです。職務上許された権利だと思いますが。
 実は未遂はもう一件有りまして……。そちらはあまり公にしたくはないのですが、井藤元研修医『も』そのう……。いわゆる劣情を催したというか……」
 スミレの花を彷彿とさせる可憐な顔が羞恥の色に染まって言葉を選ぶのに苦労しているのを手助けする機会を狙っていたものの、最愛の人が昨夜鎮静剤と睡眠導入剤で意識が混濁した時に口にした言葉――それが一番のトラウマになっているハズなので――を思い案ずるように、そして力付けるようにテーブルの下で手を伸ばして触れることの方が優先順位も高かったのは仕方のないことだろう。
 触れた素肌は震えと濡れた汗の雫を纏っていて、幾分生色を取り戻した顔色とは裏腹に未だ未だ心的ショックの爪痕も濃いようだった。
「ああ、井藤とかいう元研修医……頭というか精神はおかしいようだが、美意識だけはマトモなのだな……。『嫉妬深い恋人が独占してずるい』と行きつけのゲイ・バーでも未だにクレームというか愚痴が出るのだから。
 いや、香川教授が店にいらっしゃったのは一回か二回だが……それでも語り草になるほどの大輪の花のような人だからね、ここだけの話し、ということで。だからそっちのケが有る人間ならば、誰もが魅了されてしまうのだろう。その中にたまたま悪い虫が一匹混じってしまっただけのように思えるがね』
 飄々かつ淡々とした声――ドラマで観るような熱血弁護士とは程遠い感じではあったものの――逆に真実味とか場の空気を救ってくれる雰囲気を醸し出している。
「え?
 まあ、恋人もそう言っていましたが」
 毒気を抜かれた感じで呉先生が唖然とした感じの相槌と聞き捨てならない――恋人が「あの」森技官なだけに尚更危険だった――言葉を漏らした後に、気を取り直した感じで言葉を紡いだ。
「それはともかくですね。未遂といってもそちらの方は幸い軽かったので、置いておくとして……。ただ、状況はおおむね把握していましたので、田中先生と私が――恋人の元同級生が警察庁から大阪に出向していたのも幸いでした――急かされたので仕方なく代筆をした次第です。被害届は提出……」
 呉先生の温和そうな中にも凛然とした感じの声がキッチンに響いた。
『確認なのだが……代筆とはいえ、警察官は臨席したのだろうね?』
 飄々とした声で急所を突いてくる辺りがやはり弁護士としての職業意識なのだろうが、呉先生の華奢な肩が一瞬震えた。居なくてはマズいモノのようだ、タテマエ上とはいえ。ただ呉先生のあぐね切った表情が祐樹を見てきたので口を開いた。
 ただ、警官が居なかったことを知られたくないのは――六法全書を丸暗記している上に順法精神とか真面目な几帳面さを持ち合わせている――最愛の人も同様なので一瞬だけ考えた後だったが。











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一日二話更新を目指します(目指すだけかも……)

なお、年末のリアバタで更新時間がよりいっそう不定期になります。申し訳ありません。
今日はこの後二時間を目途に更新がなければ「力尽きたな」と生暖かく見守って下さいませ。



ちなみに時系列的には「夏」→「震災編」です。【最新の短編】は「震災編」の後の話です。




最後まで読んで下さいまして有難う御座います。
                 こうやま みか拝