熱く滾ったコールタールのような液体の海の中になす術もなく沈んでいく。ただ、黒く粘ついた液体の中に青く仄かに光る白く長い指が芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように鮮明に見えたが、今の祐樹にはその指を掴む資格がないように思えて、さらに深みへと呑みこまれていく覚悟を決めた。
「田中先生、起きてらっしゃいますか?」
 呉先生の温和な温かい声と肩を小さく揺すられて完全に覚醒した。今のは多分祐樹の、普段は滅多に見ない夢なのだろう。
「お早うございます。もう朝ですか?」
 目を開けたものの、熟睡したという実感は持てなかった。普段ならどんな短時間でも熟睡した後の爽快感が得られるにも関わらず。
 そして夢と異なっている点は指を繋いだままの状態で寝ていたことくらいだった。
「教授もそろそろ薬が切れてお目覚めになるかと思います。普段もこの姿勢でお休みになられているのですか?」
 呉先生が細い眉根を寄せている。危惧や懸念を抱いたような表情だったので腕の中で安らかな寝息を立てている最愛の人を起こさないように首だけ上げて見た。
 大学生の頃に習った胎児のように身体を丸めていた。
「いえ、普段は横向きなどで……。こういう姿勢で眠っていたことは記憶にないですね」
 起こさないように小声で告げた。呉先生も興味本意で聞いているわけではないのは明白だったし、別に隠さなくても良い程度の情報だった。
「そうですか……。精神が防御反応を起こしているのかも知れませんね。あくまで仮説に過ぎませんが。
 完全に安心出来る場所として、本能が母体に居る時のことを思い出しているという説なのですけれども」
 つまりは、最愛の人の負った心の傷はそれほど大きいということなのだろう。
 全ては祐樹の対応が後手後手に回ったせいで……。
 祐樹が見た夢の話を相談しようかという気にもなれず、ため息を押し隠すのが精一杯だった。
 夢判断として有名なのは言うまでもなくフロイトだろうが――著作を数冊読んだだけだが――何でも「性的なモノ」に繋げる点が気になったし、第一彼は心理学者で精神科の医師ではないので、呉先生も専門外かも知れない。
「朝ご飯はここで三人で食べましょう。
 教授がご自分から昨夜のことを言いだすまでは『なかったこと』としてスルーした方が良いと思います」
 熟睡した感じは全くなかったが、それでもやはり睡眠をある程度まとめて取ったせいで――時計を見ると11時過ぎだったのでかなり驚いた――頭は昨日よりもマトモに動くようだった。
「もう少し寝かせておいた方が良いかと……」
 蒼褪めた素肌がバスローブの隙間から見えて、汗の雫が細かく宿っているのも痛々しい。
「それはお勧めしませんね。寝過ぎると今日の夜に眠れなくなります。今のところ抑うつ症状は出ていないようですが、ウツに依る過眠も有りますので日光の光りを浴びることや適度な運動も必要ですよ。
 本当は外に出て散歩する方が良いのですが、それは教授の様子を診ながら判断します」
 ウツで眠れないという話は良く見聞きするので知ってはいたが過眠状態というのは初めて知った。
「分かりました。その点はお任せします」
 呉先生に無理やり微笑んでみせた後に、朝の身支度には――普段は無意識に行っているので――考えている以上に手の動きが必要なことに気が付くという体たらくだった。
 歯を磨くとか、顔を洗うとか一々意識しているほどの暇はない日常だったが、ことここに至って改めて考えてみると指を動かす動作が多いのは痛恨事だった。
「洗顔とか……。いえ良いです。何とかこの人の負担にならないように考えます」
 呉先生も――聞いてはいないが枕が変わると寝られないタイプかもしれないし、緊急事態に駆けつけて来てくれたこととか――かなり疲れているだろうから。
「何ですか?田中先生はお一人で抱え込むタイプでしょう?精神科医だって人間であることには変わりがないので……精神科時代には「患者さんのマイナスとか妄想とかの強い心の働きの波及効果――精神が病んでいる患者さんの発する心のエネルギーは物凄く強いのです――に引き摺られないようにお互いでケアをしあったものです。
 田中先生も、肩の力を抜いてというか、一人で背負いこもうとせずに何でも相談して下さいね」
 野のスミレの可憐な笑みを浮かべながら心配そうに祐樹を「診て」いたが、そして最愛の人の精神状態のケアは全部任せる気になってはいたものの、祐樹が一人で抱え込むべき問題だと思えた。
「有難う御座います。そうさせて戴きますね」
 本心とは逆のことを言って笑顔を取り繕った。
「夜は眠剤を使いますが、それまでは様子を拝見しながら対処療法で薬は出すかどうか決めます。
 昼間はあまり強い薬を出すのは控えた方がベストですし……陽射しを浴びて――まあ、このマンションはキッチンでも燦々と日が当たるので大丈夫でしょうが――少しでも外の空気を吸いに出かける程度は必要かと思いますよ」
 外に出る方法……そういえばセミの幼虫の羽化を「夜」に楽しむというデートの約束を交わしていたものの、夜中まで起こしていては逆効果だろう。
 それに手の震えがどの程度緩和されているのか全く分からないので、取り敢えずは様子見だろうな……と思う。
「ゆ……祐樹……」
 長い睫毛が蒼褪めた滑らかな肌に小さな影を落としている。閉ざされた目蓋も白さではなく青みを帯びているのも心が痛む。
「お早うございます。
 勝手に泊まり込んでしまったお詫びに朝食を作ったので、三人で食べましょう。
 朝食というより、もうブランチといった時間ですが」
 呉先生の声が明るさと穏やかな軽やかさを加えて部屋に響いた。どうやら本格的に彼を起こす積りらしい。
「お早うございます。お早うのキスは……二人きりの場所で交わしましょうね」
 祐樹も快活さを装って最愛の人の肩を軽く触れた。
「馬に蹴られてしまいそうな邪魔者はキッチンに退散しますから、どうかごゆっくり」
 呉先生の――多分「職業上の顔」なのだろう――頼り甲斐の有る感じの温和な笑顔が満開のスミレの群生を彷彿とさせていったん寝室から軽快な足取りで出て行った。
 「料理を作った」と聞いて一瞬嫌な予感が胸を掠めたが、この際そんなことはどうでも良くて、繋いだ手とベットに投げ出されている左手をそれとなく見守った。
 閉じた目蓋が完全に開いたと当時に、手の震えも同時に起こってしまっていたのを見て胸が潰れるほどの痛みを覚えながらも、笑顔を取り繕って口づけを交わした。
「祐樹……お早う」
 震える手は自覚しているのだろう、青褪めた表情が幾分強張っている。
「朝の身支度は全部お手伝いします。停年後、万が一のことが有った場合に備えて今から予行演習をしておくのも悪くはないと思います、よ」
 手の震えを止めるように強く絡ませながら、最愛の人の切れ長の瞳を見詰めつつ額を合わせて唇には「屈託のない」笑みを強いて浮かべた。
 綺麗に澄んだ眼差しは最初こそ焦点が合ってないようなぼんやりとした光を宿していたが、それは多分薬のせいだろう。直ぐに無垢さの煌めきに変わったものの、夜の海のような仄暗さを秘めているのが気になってしまう。
 一晩で回復しろという方が間違っているとは考えてはいたものの、現実の重さに打ちひしがれてしまいそうだった。











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本日は【二話】更新を目指しますが、二時間を目途に更新されなかったら「力尽きたんだな」と思って下されば幸いです。

 
ちなみに時系列的には「夏」→「震災編」です。


最後まで読んで下さいまして有難う御座います。
                    こうやま みか拝