「マンションってとても便利なのですね……。防犯性も極めて高そうですし、掃除も楽そうで良いですね」
 二人分のコーヒーを更に追加しながら呉先生が祐樹の気分を引き立てるように淡く微笑んでいる。
「そうですね……。ただ、路上で狙われるのは充分予測していたのですが、防ぎきれなかった点が悔やんでも悔やみきれないです……」
 そう言えばMSセキュリティの相模所長に警護の必要が無くなったことを告げなければならないなと思いつつも、先送りにすることを即座に決めた。今夜の精神状態では「あの」異様なテンションの高さとか妙な日本語を聞きたくないのも揺るぎのない事実だったので。
 これ以上精神的に負荷を掛けるとメンタル面も強いと自覚している祐樹でも何だか危険水域に達しそうで怖かったので。
 世界で二番目に美味しいコーヒーを飲みながら警官達を迎えるべく心の準備を固めた頃に控え目なドアチャイムが鳴らされた。
 もっと傍若無人的な感じを予想していただけに、一回だけのチャイムという――署長が平謝りをしていたのでその意を汲んだのかも知れないが――心遣いに感謝しつつ玄関のドアの開錠ボタンを押した。本来なら玄関まで迎えに行くのが普通だろうが、もう一歩も動きたくないのが本音だったので。
 祐樹の顔色とか雰囲気を察したのだろうが呉先生が空気を読んで玄関まで軽やかな仕草で立ち上がって出迎えに向かった。
 キッチンのテーブルの上には病院公用の封筒に入った診断書と、二人してある意味でっち上げた「事情聴取書」がひどく禍々しい感じで置かれている。
 警官二人が深夜に相応しく静かな動作でキッチンに入って来たのを立ち上がって迎えた。
「この度はとんだことで……。心中深くお察しいたします。
 また、署長から直々にお詫びを申し付かりまして……本来ならば生活安全課の課長が参るべき事態なのですが、帳場の――つまり捜査本部――立ち上げに忙殺されておりまして私どもが参った次第です」
 幾分年配の方の警官が名刺を差し出しつつ温和そうな腰の低い感じで祐樹に話しかけてきた。(警官が名刺を差し出すこともあるのだな)と内心で意外に思いながら名刺に目を落とすと、生活安全課係長と記されていた。
 捜査本部を立ち上げても無駄――アイツは厚労省のどこかの矯正施設に厳重に身柄を確保されていて、今頃は森技官に容赦ない精神攻撃を食らっている頃だろうから――なことは分かってはいたものの、一定の評価はすべきだろう。島田警視正も全てを承知の上で警察署に居るので、その判断に従うしかなかった。
「初めまして。京大附属病院の田中と申します。名刺はあいにく持ち合わせていないものでご容赦下さい」
 名刺入れはパウダールームに脱ぎ捨てたスーツのポケットに入っているのは分かってはいたが、取りに行くのも億劫な気分だった。
 律義かつ几帳面な最愛の人なら多分取りに行っただろうが――実際肌身離さず持っていた方の二枚しか紙の入っていない名刺入れで所在地が即座に分かったのは助かった――早く役目を終えて退散して貰って今夜は一刻も早く休みたい上に最愛の人の傍に居たい気分だった。
 傍に居ても何も出来ないだろうが、せめて悪夢を見ないように、そして何より早く指の震えが取れるように指を繋いで眠りたかったので。
 座るように勧めたものの直立不動という感じで立ったまま「事情聴取書」を読み終えた係長は遠慮がちな感じで口を開いた。
「ご本人からもお話しを承りたいのですが……?」
 祐樹が口を開くよりも早く、呉先生が細い眉を逆立てて怒りの表情――恋人である森技官以外にこういう表情をしているのも彼にしては珍しい――でスミレの可憐さをかなぐり捨てていた。
「貴方がた御用達の警察病院の精神科も優秀だと漏れ聞いていますが、精神的ショックを受けた被害者に対して問答無用の事情聴取を行うのですか?
 しかも、優秀な外科医にとって一番大切な腕を切りつけられそうになった人に向かってこれ以上何を話せと?
 それにご本人はオレ……いや私の打った鎮静剤の注射が効いて眠っておられます。
 精神科医の私としては、断固としてドクターストップを掛けます。警察は容疑者ですら傷を負った人間に『回復を待って』事情を聞くのでしょう?だったら、被害者には更に配慮が有って然るべきだと思うのですが、如何でしょう」
 寝室に響くのを恐れたのかごく低く小さな声だったが、凛然とした中にも激怒の雰囲気ときっぱりとした拒否の構えを固く決意した感じがヒシヒシと伝わってきた。
「それは大変失礼を致しました。では、私どもはこれを戴いて帰ります」
 呉先生の権幕に平身低頭といった感じで頭を深く下げた係長は二通の書類を押し頂くような恰好でそそくさと退散した。
「呉先生がいらして下さって本当に良かったです。私が口を開けばもっとひどい言葉を投げつけたかと思うので……」
 玄関ドアが閉まったのを確認してから感謝の言葉を呉先生にかけた。
「同居人が良く言っていました。警察は『庁』のクセに生意気だとか『省』になってから対等にモノを言えとか。あまり実感はわきませんでしたが、今夜ハッキリと分かりましたよ。
 『庁』とか『省』なんて一般の私達にはどちらでも同じように思えますが、旧内務省という、政治の中枢を担っていた厚労省――まあ、不祥事続きでバッシングの絶えない『省』では有りますが――と所詮は『庁』にしか過ぎない警察ではやはり対応が異なるのですね」
 憤懣やる方なしといった感じでスミレの可憐な唇を動かす呉先生の怒りが凄まじすぎて、祐樹としては「出遅れた」感が強すぎて怒りの矛先が削がれたのも事実だった。省と庁ではそんなに異なるのかと外部の人間には分からないものの、内部に居る人間にはまた別の感慨とか思惑が有るのだろう。
「これで今夜の務めは終わりました。教授は明日の朝まではお目覚めにならないハズですので、今夜のところはいったんお開きにしましょう。
 万が一薬が切れて起きられた時に備えて私はリビングルームのソファーで眠りますが、何か有れば即座に声を掛けて下さいね。
 明日の朝ご飯は遅めに声を掛けますので……それまではゆっくりとお休み下さい。
 田中先生が最もお疲れだと思いますので。あ、お薬は必要ですか?」
 呉先生の大荷物の中には祐樹用の眠剤も含まれているらしかった。ただ、薬の力を借りて眠ったら、夜中に最愛の人が起きてしまった場合に対応が不可能になるので淡く微笑みを浮かべて謝絶した。
「明日の朝食も、教授が作り置きして下さったものを解凍するという手抜き料理で良いですか?」
 呉先生がスミレの初々しさのような恥じ入った感じの表情になった。
「それで充分です。来て下さっただけで本当に助かりました。私一人では対応に苦慮したでしょうから」
 別に呉先生に料理の腕は求めていない。その上、下手に頑張るよりも冷凍庫に多数入っている最愛の人の手料理の方が確実に美味だろう。
 空になったコーヒーカップなどを皿洗い機に入れてから最愛の人のパジャマ――呉先生にはサイズ的に少し大きいだろうが――を出して着替えるように勧めてから寝室へと入った。祐樹もパジャマに着替えてから、最愛の人のバスローブを起こさないように細心の注意を払って開いた。
 蒼褪めた肌に消毒済みの傷の手当ての跡とかバスローブに吸収されないほどの汗の雫が浮いているのも痛々しくて見ていられない。
「申し訳ありませんでした……。もう少し早く駆けつけるべきでした。後手後手に回ってしまった不始末を深くお詫び致します」
 聞こえていない謝罪の言葉を口に出さずにはいられない気分で、汗の雫を拭ってからベッドに入った。
 恐らく無意識なのだろうが、祐樹の体温を慕ったような感じで最愛の人の身体が祐樹の方へと寄せられる。
 普段ならベッドに入れば直ぐに眠ってしまう体質になっていた祐樹だったが、今夜だけは全く眠気が襲って来ない。
 右手を固く繋ぎ合わせて、砕けた魂が心を悔恨という名のドライアイスが熱く抉り続けてしまう。
 明日に備えて眠らなければならないと思いつつも、一向に眠りの国に入れない長い夜を持て余していた。











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本日は【二話】更新を目指しますが、二時間を目途に更新されなかったら「力尽きたんだな」と思って下されば幸いです。

 
ちなみに時系列的には「夏」→「震災編」です。


最後まで読んで下さいまして有難う御座います。
                    こうやま みか拝