「それって、教授の現金や不動産とかその他金融資産など、教授がアメリカ時代に稼ぎ出したお金を田中先生が『その気』になれば持ち出すことが出来ますよね?
 教授の全幅の信頼を受けているのですね、田中先生は。
 オレの場合、同居人に全ての資産――と言っても家と敷地くらいしか有りませんが――その権利書を自由になんてさせていません。
 愛情だけではなくて、田中先生全てを丸ごと信頼なさっているのですね、教授は……」
 呉先生の目下のところの「患者」は祐樹最愛の人で、そして祐樹はどんなに頭の中がカオスになっていようともそれを気取らせないだけの訓練めいたことは救急救命室での勤務で培ってきただけに祐樹の魂が鋭利なメスで抉られているような痛みにも気付かれてはいないのだろう。
 そして呉先生は祐樹の気分も上げようと言ってくれたに違いないが「全幅の信頼」という言葉が逆に魂に突き刺さってしまって、ぎこちなく微笑むことしか出来ない。
「そう……ですね。総資産がいくら有るかとかも多分聞いたら教えて貰えると思いますが、別にお金目当てで付き合っているわけではないので」
 努めて快活な感じで返すのが精一杯だった。
 最愛の人が――日本と異なって全額自己負担の医療費で、かつ執刀医の実績によって手術料が決まる――アメリカ時代に富裕層相手の病院で名声を発揮して巨額の富を得たという話は病院内では知らない人が居ないほどなので、呉先生も当然知っている。
 祐樹と同じく具体額は知らないだろうが。
 ただ、その総資産を祐樹が「その気」になればパクって懐に入れてどこかに行ってしまう――心臓外科医としては働けないだろうが、医師免許はどの科でも通用するので町のクリニックなどの働き口はたくさんある――リスクは呉先生に指摘されるまで気付かなかった。
 祐樹には毛頭そんな気はなかったせいもあったし、最愛の人と離れて生きていく将来など考えられないほど惹かれ合ってしまっていたせいでもあった。
 ただ、良く考えれば呉先生の指摘も至極尤もな話で――金銭には恬淡たる態度を崩さない最愛の人なのでうっかり失念してしまっていたが――それだけ祐樹に対する信頼の度合いが高いのだろう。
 そんなに信頼して貰っているのに、こんな事態に遭わせてしまって心に傷を負わせてしまった祐樹の慙愧の念は深まるばかりだった。
「そう言われてみればその通りですね……。
 ただ、今回の件でかなり株が下がった気もしますが。大暴落かもしれませんよ……」
 無理やり快活さを装って大袈裟に肩を竦める。
 呉先生は寝室の方に気を取られているようで、祐樹の内心には気付かなかったようだったのが有り難い。
「そんなことはないと思いますが。何なら後で試してみませんか?」
 呉先生の大荷物の中に大学病院で使われている診断書とか――多分森技官が事前に入手したシロモノだろう――警官しか持っていないハズの事情聴取書がテーブルの上に手際よく並べられて、ついでに呉先生が使っていると思しきタブレットまで魔法のように並べられた。
「北教授の『被害届』は既に最寄りの警察署に提出されているようで、そのPDFファイルがこれですね。
 時間などを正確に合わせないと流石にマズイので……。まあ、このファイルの存在自体も外部にばれるととんでもない結果になります」
 島田警視正辺りが密かに送って来てくれたのを森技官経由で入手したのだろう。
「そうですね……私は……印鑑を取って来ます」
 書斎に仕舞ってあるハズの最愛の人のハンコを探しに行くフリをしてキッチンから出て深呼吸した。
 呉先生が居てくれて有り難いと思う反面、粉々に砕け散った祐樹の魂を気取られないように振る舞うことに「も」限界を感じていたので。
 普段は足を踏み入れない書斎――几帳面な最愛の人らしい整理整頓が行き届いた部屋だったが――に足を踏み入れて、キャビネットに手を掛けた。鍵も掛けずに印鑑とか通帳とか資産運用を任せている会社からの「親展・重要」とか書かれた封筒と共にその中に入っていたと思しきドルやユーロ――その他の通貨はあいにく祐樹が知らないマークだった――で現時点での資産額と思しき書類がキチンとファイリングされていた。
 通帳――多分大学病院からの給与振込み用だろう――も引出しを開けると容易に見つかったし、流石に異なった場所に保存されてあったが印鑑類も容易に見つけることが出来た。
 呉先生の指摘通り、祐樹が「その気」になれば――絶対にそんな気は起こさないだろうが――最愛の人の全財産をそっくりそのまま持ち出して逃げることも可能な状態で保管されてあった。
 こんなにも信頼されているのに、その最愛の人を守りきれなかった祐樹の不明を恥じるばかりだった。
「本当に申し訳ありません」
 主人不在の書斎のデスクに深々と頭を下げてしまった。そんなことをしても何の効果もないことは分かっていたが、そうでもしなければ砕けてしまった魂が痛すぎて祐樹までもが壊れてしまいそうだったので。
 適当なハンコを取り出して書斎を出た。
「お待たせしました」
 キッチンに戻ると呉先生は黙々と診断書を作成中で、手伝わなくても良いのかと思ってしまう。
 最愛の人の心の傷は呉先生も把握しているが、アイツにメスで切りつけられた身体の傷――右手が一番酷いが、祐樹の付けた紅い情痕を見つけるためにシャツを切り刻んだ時に勢い余って素肌まで切られた傷がいくつも残っていた――のを把握しているのは祐樹だけだったので。
「田中先生は外科的見地からの診断を口頭で説明して戴きます。ただ、そちらも私が書きますので。というのも、ここには二人しか居ないので、事情聴取書と筆跡が同じというのは流石にマズイのです。
 本当はもう一人誰か居て欲しいのですが、贅沢は言っていられませんから。田中というハンコは必要ですがその他は私が書き上げます」
 そういうことかと納得してしまう。確かに「警官」役の人間が居るという「設定」なので、診断書と同じ筆跡で事情聴取書を書いたら流石に露見するリスクが高い。
「外傷については?」
 診断書の呉先生の分は終わったらしく、診断書のかなりの分量が文字で埋めてあった。
 森技官は「法案作成などの書類事務」仕事「も」得意分野だと言っていたし、確かめたわけではないものの、多分本当のことだろうが、今は特化した「得意中の得意」分野でその才能を花開かせて欲しいと切実に願っている。
 精神攻撃という素晴らしい才能――普通の人間には不必要な――を持っているのだから存分に発揮して欲しいし、森技官が姿を見せないのも本人も自分の才能を誰よりも良く知っているからだろう。
「外傷を列挙しますね……」
 具体的に思い出しながら、青褪めた滑らかな素肌に血液の滴り――仕事上では慣れてしまっているし、メス、は流石に居ないが、刃物でもっと深くまで抉られた患者さんを多数診ていたものの――それが最愛の人の怪我を具体的に話すとなると話は別だった。
 手当ては細心の注意を払って施したものの、呉先生の筆跡で文字になっていくと、祐樹自身の身を切られるように辛かった。
 ついでに唇も寒いどころの騒ぎではなくて、魂の温度が氷点下まで下がっているのを呉先生に悟られないようにするのが精一杯という有様なのが情けない。
「全治2週間」とか――交通事故で搬送された患者さんなどには保険会社に提出する必要も有って書き慣れた単語の列だったが――淡々と言うように内心懸命に努力をしなければならないのも辛すぎて魂だけではなく精神が血を流しているのを自覚しながら言葉を絞り出した。
 呉先生にも気付かれないように慎重に、なるべく平坦さと冷静さを装っていたものの、内心では血の涙を流していた。
 こんなことではいけないと自分を叱咤激励しつつ。
 最も恐怖を味わったのは、祐樹の力不足で守りきれなかった最愛の人なのだから。
 その良心の呵責というか責め苦は祐樹一人が墓の中まで持って行く覚悟だったので、呉先生にも悟られてはならない。











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               こうやま みか拝