「あの点滴スタンドとか薬剤の調達はウチの病院からでは有りませんよね?
 いえ、咎める積もりは毛頭有りませんが、良く準備出来たなと感心しまして」
 砕けた魂の欠片を何とか修復しようと、普段は入れない砂糖とミルクをかき混ぜながら呉先生の手回しの良さに感嘆の眼差しを向けた。
「その話は――薬剤が効いて眠っていらっしゃるとはいえ――香川教授の容態を診ながらでも大丈夫でしょう。聞かれても問題のない話題だと思います。
 だから、今の精神状態の教授の耳に入れたくない話題もたくさん有りますし、そちらの方を先に済ませましょう」
 優先順位を付けて物事を円滑に運ぶ重要性は救急救命室でも官僚の世界でも同じらしい。
 そして呉先生の口ぶりから今夜は徹夜を覚悟で最愛の彼の容態を診るつもりらしいことも。
 まあ、祐樹だけでは――こんなことになると分かっていれば、大学時代にさしたる興味のなかった精神科の講義も真面目に受けておくべきだったと切実に後悔してしまったが――対応しきれないのも分かっているので、その点に異存が有るわけでもなかったが。
 それにアイツに対処してくれている森技官から呉先生の携帯に電話を掛けて来た件も実は気になっていた。
「井藤達也に関してなのですが」
 その名前を聞いただけで普段なら「甘過ぎる」と舌が判断するコーヒーが濃い目に淹れたブラックコーヒーよりも苦く感じた。
「田中先生からの第一報を受けてから同居人とも散々議論に議論を重ねました。まあ、オレなんかよりも同居人の方が手厳しい意見でしたが、今の教授の状態を診た上でその判断というか直感の方が当たっていたと言えなくはないので、最終的に同意しましたけれど」
 森技官の悪辣な実行力に比べれば、比較的常識人の呉先生がストッパーになっていたのだろうが、この事態になってしまった以上は――祐樹も己が背負っていかなければならない精神的な十字架は絶対に下ろす積りはなかった、愛する人を守りきれなかったのだから――呉先生も止める役目を放棄したのかもしれない。
「ベンツを運転していた島田警視正と同居人は大学時代の同級生らしいのですが、ウチの学部は六年なので先に警察庁に入省したので官僚としてのキャリアは向こうの方が上です」
 警察官僚なのだから、森技官と同じ大学――ちなみに長岡先生もだが――の法学部出身であることはほぼ間違いはない。祐樹も最愛の人のお供を――表向きはただの付き人で、実は東京の岩松氏の病院の執刀医を務めさせてもらっているが夜は合流する一介の医局員だ――厚労省の和泉技官などと話す機会が有って知ったことだが、官僚の世界は大学院卒よりも学部卒の方が圧倒的に多いらしい。医学部は6年間がセットなので一応、修士号取得の院卒までが必須だった。その後二年学んで「医学博士」号を取得する学生も多いが、それは開業医になった場合、世間の目に好ましく映るからで他に業績――例えば最愛の彼などの手技の世界的な名声とか権威など――が有れば別に問題はない。
 他の省庁ではほとんどが官僚育成大学とも揶揄される森技官の出身大学出身者が最も多く、何故かウチの大学から官僚への道を選ぶ人間は少数派だった。
「アイツの懲役が七年だなんて……。あ、タバコを吸っても良いですか?」
 唯一無二の守りたい恋人をこんな目に遭わせてしまったせいで粉々に砕け散った魂の欠片をどうにかして修復しようと思えば、そしてアイツのことを考えると無性にタバコが吸いたくなる。呉先生が潔癖過ぎる嫌煙家でなくて良かったなと思いながら祐樹は自分の個室になってしまった部屋からタバコと灰皿を持って来た。呉先生が「もちろんです」と言ってくれたので。
「通常警察の役割は容疑者を検事に送ると仕事は終わりで、それ以降関わることは有りません。裁判の判決などは当然目を通しますし刑務所に送られたら業務は完遂です。
 ただ、今同居人が腕によりをかけてアイツを追い込んでいる――精神的にも、そしてアイツの経済力を削ぐためにも――真っ最中で『想定以上に上手く行っている』と報告が有りました」
 辛辣かつ容赦のない森技官が本気を出せば――しかも専攻は精神科だ――その破壊力は底知れない凄味を持つことも祐樹には分かる。
 最初に会った時に祐樹が口論に勝てたのは「でっち上げの画像だ」という確たる証拠が有ったからだったし、何なら証人も何人でも連れて来ることも可能な状態だったからだ。
 そして森技官の目的は祐樹の方へ心配そうな眼差しを送りながらコーヒーの湯気を野のスミレの可憐な頬に当てている呉先生を射止めるためで、最愛の人の「でっち上げ画像」はいわばダシにされただけに過ぎない。たまたまウチの病院の看板教授が最愛の人だったので捏造画像を使われただけで――不定愁訴外来という呉先生にとっての城はウチの病院が健在であることが前提条件なので、病院存亡の危機にさらされた場合呉先生の細やかな城が破壊されてしまう――仮に他の科の人間が看板教授だった場合はそちらの画像を捏造したに違いない。森技官にとっては母校でもあり、職業上でも出入り可能な大学病院が東京なのでその辺りは存分に融通が利くのだろう。
 その森技官の今回の目的がアイツを潰すこと――森技官の怒りは祐樹にも存分に伝わってきた――なので情け容赦はないだろう。
「それは有り難いです」
 最愛の人の魔法のように美味な――彼には朝食のメニューに過ぎないが――スープとかトーストを食べて、タバコの煙を肺いっぱいに吸い込むとやっと人心地がついた気分になって、粉々に砕けた心の痛みも――多分一時的だろうが――少しは和らぐような気がした。
「で、アイツが判決通りに刑務所に入り、出所した場合は島田警視正が責任を持ってチェックして下さるとのことです。普通はそこで野放しにされますが――まあ、法律的には罪を償ったので犯罪はチャラになり後は好きに生きろと言うことですけれども――精神疾患者には措置入院という制度が有って『精神科医が必要と判断した患者』には適用されます。
 京都と滋賀の境目の山の中にそういう措置入院受け入れ可能な病院がいくつも有って、一生病院から出て来られないようにすることも可能です」
 なるほどな……と思ってしまう。こういう「冷徹な処遇」を一番先に考え付きそうなのは森技官なので呉先生もギリギリまで迷っていたに違いない。
「ではアイツは一生精神病院の中で生きるということですか?」
 タバコの煙を呉先生に向けないように大きく吐き出す。
「そういうことになりますね。
 ただ、家族の同意なども必要になりますが、井藤一家の隠し資産はかなりの精度で調べています。その口座はアメリカのテロ防止法を援用して――何せ日本の反社会的勢力は今や米国に喧嘩を売っているに等しい国との繋がりが密接なのも警察の公安などが着々と調べ上げていますから――悉く口座を凍結したり、没収したりも出来るようです。
 財務官僚や税務署、そして外務省までが動いてくれているようで、回答は充分可能だとのことです。井藤一家は経済的に破滅ですね。まあ、後ろ暗いことをして得た資産なので自業自得でもありますが」
 あの出来損ないの風呂屋のような――祐樹ですらトラウマになりそうな家だったので、右手の腱や神経を切られそうになった最愛の人は更にそうだろうが――も没収されて取り潰されるのかと思うと一筋の光明が心の中に射しこんで来るようだったが。
 それに井藤が一生精神病院の中から出られないということも。
 京都と滋賀の境は山ばかりの僻地だし、精神病院は他の科の病院よりも患者の脱走を防止するための設備が整っていると聞いている。アイツは刑務所のような隔離病棟にでも入れられるのだろう。精神病院も厚労省が監督省庁なので森技官の目が怖いハズなので。
「しかし、森技官の過酷な精神攻撃によってアイツが精神を崩壊させたら裁判で心神喪失との判決が出た場合はどうなるのですか?」
 聞きかじりの知識だが、心神喪失の場合は確か無罪になるハズだった。普段の祐樹ならPCで検索して自分で調べる程度のことはするし――時間が時間なだけに知り合いの杉田弁護士を叩き起こすのも非常識かもしれないが――杉田弁護士に電話を掛けて聞くという方法も有ったが、到底今日はそんな気力がわいてこない、自分で自分が情けないが。
「その判決が出た場合も当然想定済みで、裁判所が心神喪失と判断した場合は即座に精神病院行きです。
 性犯罪者……」
 呉先生の目が痛ましそうな光を帯びて寝室の方へと向けられた。
「性犯罪者は覚せい剤のような依存性を立証された中毒患者ではありませんが、再犯率が極めて高いとの統計も有りますので、ああいうヤツは一生隔離されていた方が世の中のためになります」
 刑務所のような場所で一生を送るのだったら、確かに祐樹も溜飲の下がる思いだった。細かく砕けた魂の欠片のピースが少しだけ修復されたような気がした。
「教授のことですが……。そのう……」
 呉先生のスミレのような可憐な視線が気まぐれな風に翻弄されたタンポポの綿毛のように宙を泳いでいる。












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               こうやま みか拝