呉先生は祐樹にだけ聞こえる距離に近付いて来て小声で囁いた。
「教授は裂傷を負っていらっしゃるのですよね?その手当は田中先生の方が向いていますし手早いでしょう。その後ベッドルームでこの食事を召し上がりながら、話を聞いて……教授が無事に就寝した後に田中先生と私が「香川教授」として「事情聴取書」と診断書を作成しろとの同居人の指示です。署名と捺印だけは教授自筆で貰って『後は読まなくても良いから』で押し通せとのことです」
 大まかな流れは了解したものの、最愛の人がこんな目に遭った日に即座に眠りについてくれるかは疑問だった。
 これまでの二人の愛の歴史の経験上でも、精神的ショックを負った日には眠れなくなる体質の持ち主なのは分かっていた。
「大丈夫です。そのためにこの大荷物を持って来たのですから」
 呉先生は野のスミレの、可憐さと野生の逞しさの混ざった笑みで祐樹の思考を読み取ったかのように小さく微笑んだ。
 メスで切られた裂傷の部分は既に覚えていたし、怪我の手当て「だけ」なら用心深い最愛の人が予め家に備え付けの救急箱の中身で大丈夫そうだったが。
「浴室で話をしたのですが、それは大丈夫ですか?」
 震え続けている指を繋いだまま、呉先生に聞いてみた。今の最愛の人の精神状態は脆くて繊細なガラス細工のようなモノであること程度は分かったが、何を言って良いのかなど詳しいことは呉先生に委ねた方が祐樹も安心だった。
「尋問口調でなければ大丈夫です。教授が話し出したら決して否定的な単語を交えずにだけ注意して会話を続けて下さい。手の震えが強くなったら即座に話題を切り替えて」
 呉先生も祐樹と話しながら祐樹最愛の人の様子をさり気なく診ている。
 祐樹が浴室で会話をした時のことを思い返してみて、呉先生の専門家としての言葉に違えていないかを反復して、内心安堵した。
「田中先生に怪我の手当てをお任せしました。寝室で手当てを終えてから夜食、それとも夕食なのかもしれませんがこれらを召し上がりながらお話しをしましょう」
 呉先生の落ち着いた、そして普段よりもさらに快活そうな言葉は――祐樹は呉先生の仕事振りを見たこともない。大学病院内小さな彼の城でもある不定愁訴外来に足を運ぶ時は患者さんの居ない時間帯のみだったので――患者さん向けのトークなのだろう、多分。
「これらは、全て呉先生が作られたのですか?」
 祐樹同様の感想を最愛の人も抱いたらしくお湯に浸かったせいか幾分血の気の戻った顔色に、驚きの色を浮かべている。繋ぎ続けている手は相変わらず震えてはいたが。
 ポタージュスープとレタスとプチトマトのサラダ、そしてこんがりキツネ色に焼いたパンの上を黄金色のバターが美味しそうな煌めきを放っている。最愛の人にとっては朝食の範疇だろうが、今日も手術を終えての教授会出席だったろうから、夕食は未だのハズで空腹感どころではないだろうが、確かに食べておいた方が良いだろう。
 レタスは千切っただけ、トマトはヘタを取っただけだろうし、パンはトーストで大丈夫だろうが、ポタージュスープの難易度は――今の祐樹には作れるが、最愛の人と同居する前は不可能だったし、呉先生も当時の同じような料理のレベルだと思い込んでいたし、実際に料理は作らないとも聞いていたので――相当高いハズだった。
「まさか……。非礼を承知で冷蔵庫を全部拝見したら、冷凍庫の中に教授の綺麗な筆跡で『ポタージュスープ』と書いて仕舞ってあるのを見つけたので、それを解凍しただけです。
 ウチの古びたレンジと、後はコンビニで店員さんにチンして貰うだけの食生活を送っているので、充実しきった美味しそうに並ぶ手料理の数々に相応しい最新のオーブン兼レンジの扱い方は分からないので……冷蔵庫スープの内部が凍っていたらすみません、先に謝っておきますね」
 控え目な感じの笑顔と明るい声が野原に咲き誇る小さな野のスミレの風情そのものだったが、小春日和の木漏れ日の中に居るような寛いだ気分にさせてくれるのは呉先生の人徳の賜物だろう。そしておそらくは職業上こういう感じで――精神病の種類にもよるだろうが――患者さんに接しているに違いない。
 内部が凍っていないかは呉先生の性格上何度も確かめたハズで、これも最愛の人の心を和ませるための冗談に違いなかったが。
「凍ったスープも変わっていて美味しいかもしれませんね。ほら、何時か作って下さった冷たいカボチャのポタージュスープは絶品でしたよ。
 ただ、温かいモノを召し上がった方が良いと思われますので、凍った部分が出て来たら私に回して下さい」
 最愛の人に視線を合わせて「日常」的な会話を交わした。
 寝室に二人して入ってバスローブを必要な部分だけはだけて怪我の手当てを――内心こみ上げてくる井藤への憎悪の念を押し殺して――なるべく淡々と行った。
「右手の裂傷が一番深いですね。腱までは届いていませんが。それ以外は一ミリにも満たない傷ばかりです」
 「右手の腱」と事務的な口調を繕って言った時に、ベッドに腰を掛けて手当てを受けていた人の指の震えが大きくなった。
 慌てて手を握りながら「食事を持って来て下さい」と大声で呼んだ。多分、寝室付近で待機していたのだろう呉先生は直ぐにドアを開けてくれる。バスローブを元に戻してベッドに優しく横たわらせた。
「井藤は……『この神の手はオレのものだったのに』などとずっと車内でも言っていて……。
 北教授をスタンガンで昏倒させた後に、私が抵抗を続けていたものだからクロロホルムだろう……あの匂いはで意識が一旦途切れて……」
 北教授にスタンガンを準備していたのも想定外だったが、狂気の「元」研修医――今はどの身分なのだかは些細なことなので確かめていないものの、斉藤病院長の激怒振りと医学界の華麗な人脈の持ち主なので最終的にそうなるだろう――井藤がクロロホルム、クロロフォルムとも表記されるが、吸入用の麻酔薬まで準備していたとは。
「そして?」
 呉先生はスプーンでポタージュスープを運びながら温厚かつ案ずるような声を出して話を続けさせようとしている。
「祐樹、手は動いている……か?」
 スープを飲みながら繋いだ手を強く握られた。相変わらず震えてはいたものの。
「動いていますよ。今五本の指が強く私の指を握りしめて下さっています」
 安心したような感じで頷いたものの、最愛の人の目には恐怖に強張った感じの光りが宿っていて、祐樹の魂まで粉々になったような痛みを覚えた。
 最愛の人の世界中から称賛される「神の手」の精緻かつ大胆に動くレベルを要求されているし――実際はたゆまぬ努力の賜物だと祐樹は知っていたが――天賦の才能とも評されている。動く・動かないというレベルの話ではなく今日の手技のように精妙さと卓越した動きが元に戻るのだろうかと、祐樹自身も心が真っ青に蒼褪めていたが、一番動揺しているのは最愛の人だ。
「いっそのこと、この腱を切ってしまえば、自分が『神の手』の持ち主になれるとかも言われた。
 その時の傷がそれだ……」
 繋いだままの祐樹の手ごと震える手がベッドの上に掲げられた。
「それはさぞかしお辛かったでしょうね。私に話して楽になれるのでしたらいくらでも話して下さい。教授のお力になれるかどうかは分かりませんが」
 呉先生の野のスミレの声色がいっそう親身さを増して、聞く者の心を和ませる。
 スープを甲斐甲斐しく蒼褪めて震える唇へと運びながら、祐樹に目配せをしている。視線の先から察するに「スープ係り替わるように」とのことだろう。
 了解のサインを送ってスプーンを左手で持った。
「お話しは聞こえますから、そして話せる範囲で構いませんので続けて下さい。少しだけ準備をしますね」
 呉先生のカバンが大きく開かれて、その中身を見て驚いた。表情にもスープを唇に運ぶ手にも影響はないように振る舞ったが。











どのバナーが効くかも分からないのですが(泣)貼っておきます。気が向いたらポチッとお願いします!!

季節の変わり目のせいか、体調が思わしくなくて更新がままならないことをお許し下さい。
一日一話は(多分)更新出来そうですが、二話は難しそうです。「夏」更新後二時間を目途に更新が無ければ「力尽きたな」と判断下されば嬉しいです。
しかも更新時間がマチマチになるという体たらくでして……。
他の話を楽しみにして下さっている方には誠に申し訳ないのですが、その点ご容赦下さいませ。



最後まで読んで下さって有難う御座います。
                 こうやま みか拝