黒木准教授からだったら自分も病院に戻らなくてはならないのは医局の責任者としての務めだったし。
病院長の執務室からの電話だったので(原稿の出来映えについてだろうな……)と思いつつ通話ボタンを押した。
『斉藤ですが、原稿を拝見しました。その件について数分お話ししたいのですけれどもお時間は……』
いつも溌剌さと威厳を感じさせる斉藤病院長の声に――こういう話し方も今後の参考にしようと心の中の記憶装置をフル稼働させつつ――聞き入った。ただいつも以上に元気そうなのは良い知らせだろうが。
「はい。私は定時上がりですので全く構いません。病院長のほうこそ貴重な時間を割いて頂きまして有難うございます」
心の持ち方次第で――今までは意識せずに割と淡々とした話し方だっただろうし、また無機的な感じが強い口調で齋藤病院長とは話していた記憶しかない――あくまで自分基準だが「感じのいい」話し方に変わっていくのを自覚した。
従来はこれ以上の出世を考えたこともなかったので、必要最低限の礼儀さえ弁えていればそれでいいと思っていたが、裕樹が教授職というポストに就くには自分が次期病院長になるしか方法はないことに気付いてからは今までも充分気に入られているハズの齋藤病院長の覚えをさらにめでたくする必要性を強く感じていたので。
『原稿は読ませて貰いました。
素晴らしい出来ですね。特に心理描写が素晴らしいと思いましたが、あの部分は田中先生が書かれたのでしょう?』
威厳に満ちた営業という裕樹ですら感心の的にしている齋藤病院長の話し方がより一層テキパキとしていたし何よりも声が明るかった。
その上形の上では疑問文のようだったが内心は確信している感じが透けて見えるのは「自分がどれだけ興味を持って聞いているか」だろう。それまではごく機械的にしか接していなかったので、当然ながら言葉の中身は悉く暗記してはいたものの、言語として発しない部分については関心を抱いたことは一切なかったのも事実だった。
その傾向は唯一の上司である病院長だけでなくて、自分と関わりのある全ての人で、唯一の例外は当然のことながら裕樹のみという我ながら現金な結果に唇に笑みが浮かんでしまう。
「はい、そうです。ただそれが何か問題でも……」
隠し立てすることでもないような気がしたのでありのままに答えた。それにあんなにも語彙の豊富さとか文章構成能力がない自分のことを裕樹や自分以外で知っているのは多分病院長だろう。何しろ唯一の上司なので問題があればその都度報告書は上げていた過去があった。医局の責任者としては当然のことだったが。
『問題というわけではなくて……。田中先生の文才に感心しきりです。
それに教授の職業意識の高さも身が震えるほどの感動を覚えました。
予想を遥かに凌駕した非常にいい出来なので、私も――医療現場から遠ざかって久しいですが――昔、医大生として一番純粋だった頃を思い出して胸が熱くなりました」
魑魅魍魎が蠢く権謀術数の戦の中を無事に生き残って今のポジションに就いた齋藤病院長は医師としての使命感は大学時代に置き去りにしてしまったらしい。
まあ、自分だって「あの直後」には医師としてなど頭の中から飛んでしまっていたのも事実だったが。
まあ、それはそうと本が売れると、出版社から直接オファーが来そうな勢いですよね。
二匹目の泥鰌を狙うというか……。確実に売れた本には必ず二番煎じのような本が出ますよね。
しかし、ここだけの話、どこの旧国公立大学病院というごく狭いながらも権威もプライドも持ち合わせた世界の中では異端児として扱われてしまうために、大学の出版科以外でのオファーは断った方が良いとアドバイスをしたくてですね……。正直ここまでの出来映えだとは思ってもいなかっただけにその点だけが気になりまして』
齋藤病院長の真意を読むのは難しいと教授会の直前などに集まった人間達の間で愚痴めいた立ち話になることはあったが、今回の件では特に裏も表もなさそうな気がする。
それに裕樹の文才を褒められるのは魂が宙に跳んでしまうほど誇らしくて嬉しくて唇により一層の笑みを浮かべてしまっている。
「そうなのですか?同業者でも、ベストセラー作家がいますよね?あいにく面識はありませんが」
確かドラマ化も映画化もされた小説の原作者は大学病院勤務だった。ただ、齋藤病院長は感想と共に気を付けるべき点をわざわざ知らせるためだけに、ひいては祐樹の将来のためを慮って電話をしてきてくれたような気がする。
まあ、病院へそれだけの貢献を普段の祐樹が果たしているからこその斉藤病院長の配慮なのだろうが。
一冊出すのだってこんなに時間が必要だと身に沁みて分かった――個人的には大変楽しい作業だったが――通常業務がそもそも激務中の激務の裕樹の時間をこれ以上奪うことはさすがに気が引ける。
今回の本の話は裕樹の発案なのでそれほど抵抗はなかったが。
「世間的に作家として認知されていても、病院内での評価は著しく下がるのがこの世界です。
ですので田中先生がこの病院で生き残っていくお気持ちをお持ちであればあるほど、出版社からのオファーは断ってください。余りにも原稿の出来が良かったものでつい老婆心からご連絡を差し上げてしまいました。
大学からの出版だと問題はないので、そのように田中先生にもお伝えください。
出版科にも私自身が激励の連絡をしますし、それに出版記念パーティだか何百万部記念だかのパーティの予算もさらに上乗せします。
あんなに出来の良い小せつ……ではなくてドキュメンタリー本を作って下さったお二人には厚く報いなければ……」
二人の真の関係を知っているだけに裕樹のでっち上げの心情部分が分かってしまったのだろうが、その点は暗黙の了解でスルーしてもらえるらしい。
それにオーク○での宴会がさらに予算が使えるという朗報には胸が躍った。
耳に携帯を当てたまま帰路についた、弾む気持ちのままいつもよりも早い足取りで。
何だか原稿が実際に出来たことでさらに幸せ色の泡がより一層の煌めきを宿して心の中で弾け続けているような気がして自然と唇が笑みの形を深く彩っているのも事実だろうが。
病院長の執務室からの電話だったので(原稿の出来映えについてだろうな……)と思いつつ通話ボタンを押した。
『斉藤ですが、原稿を拝見しました。その件について数分お話ししたいのですけれどもお時間は……』
いつも溌剌さと威厳を感じさせる斉藤病院長の声に――こういう話し方も今後の参考にしようと心の中の記憶装置をフル稼働させつつ――聞き入った。ただいつも以上に元気そうなのは良い知らせだろうが。
「はい。私は定時上がりですので全く構いません。病院長のほうこそ貴重な時間を割いて頂きまして有難うございます」
心の持ち方次第で――今までは意識せずに割と淡々とした話し方だっただろうし、また無機的な感じが強い口調で齋藤病院長とは話していた記憶しかない――あくまで自分基準だが「感じのいい」話し方に変わっていくのを自覚した。
従来はこれ以上の出世を考えたこともなかったので、必要最低限の礼儀さえ弁えていればそれでいいと思っていたが、裕樹が教授職というポストに就くには自分が次期病院長になるしか方法はないことに気付いてからは今までも充分気に入られているハズの齋藤病院長の覚えをさらにめでたくする必要性を強く感じていたので。
『原稿は読ませて貰いました。
素晴らしい出来ですね。特に心理描写が素晴らしいと思いましたが、あの部分は田中先生が書かれたのでしょう?』
威厳に満ちた営業という裕樹ですら感心の的にしている齋藤病院長の話し方がより一層テキパキとしていたし何よりも声が明るかった。
その上形の上では疑問文のようだったが内心は確信している感じが透けて見えるのは「自分がどれだけ興味を持って聞いているか」だろう。それまではごく機械的にしか接していなかったので、当然ながら言葉の中身は悉く暗記してはいたものの、言語として発しない部分については関心を抱いたことは一切なかったのも事実だった。
その傾向は唯一の上司である病院長だけでなくて、自分と関わりのある全ての人で、唯一の例外は当然のことながら裕樹のみという我ながら現金な結果に唇に笑みが浮かんでしまう。
「はい、そうです。ただそれが何か問題でも……」
隠し立てすることでもないような気がしたのでありのままに答えた。それにあんなにも語彙の豊富さとか文章構成能力がない自分のことを裕樹や自分以外で知っているのは多分病院長だろう。何しろ唯一の上司なので問題があればその都度報告書は上げていた過去があった。医局の責任者としては当然のことだったが。
『問題というわけではなくて……。田中先生の文才に感心しきりです。
それに教授の職業意識の高さも身が震えるほどの感動を覚えました。
予想を遥かに凌駕した非常にいい出来なので、私も――医療現場から遠ざかって久しいですが――昔、医大生として一番純粋だった頃を思い出して胸が熱くなりました」
魑魅魍魎が蠢く権謀術数の戦の中を無事に生き残って今のポジションに就いた齋藤病院長は医師としての使命感は大学時代に置き去りにしてしまったらしい。
まあ、自分だって「あの直後」には医師としてなど頭の中から飛んでしまっていたのも事実だったが。
まあ、それはそうと本が売れると、出版社から直接オファーが来そうな勢いですよね。
二匹目の泥鰌を狙うというか……。確実に売れた本には必ず二番煎じのような本が出ますよね。
しかし、ここだけの話、どこの旧国公立大学病院というごく狭いながらも権威もプライドも持ち合わせた世界の中では異端児として扱われてしまうために、大学の出版科以外でのオファーは断った方が良いとアドバイスをしたくてですね……。正直ここまでの出来映えだとは思ってもいなかっただけにその点だけが気になりまして』
齋藤病院長の真意を読むのは難しいと教授会の直前などに集まった人間達の間で愚痴めいた立ち話になることはあったが、今回の件では特に裏も表もなさそうな気がする。
それに裕樹の文才を褒められるのは魂が宙に跳んでしまうほど誇らしくて嬉しくて唇により一層の笑みを浮かべてしまっている。
「そうなのですか?同業者でも、ベストセラー作家がいますよね?あいにく面識はありませんが」
確かドラマ化も映画化もされた小説の原作者は大学病院勤務だった。ただ、齋藤病院長は感想と共に気を付けるべき点をわざわざ知らせるためだけに、ひいては祐樹の将来のためを慮って電話をしてきてくれたような気がする。
まあ、病院へそれだけの貢献を普段の祐樹が果たしているからこその斉藤病院長の配慮なのだろうが。
一冊出すのだってこんなに時間が必要だと身に沁みて分かった――個人的には大変楽しい作業だったが――通常業務がそもそも激務中の激務の裕樹の時間をこれ以上奪うことはさすがに気が引ける。
今回の本の話は裕樹の発案なのでそれほど抵抗はなかったが。
「世間的に作家として認知されていても、病院内での評価は著しく下がるのがこの世界です。
ですので田中先生がこの病院で生き残っていくお気持ちをお持ちであればあるほど、出版社からのオファーは断ってください。余りにも原稿の出来が良かったものでつい老婆心からご連絡を差し上げてしまいました。
大学からの出版だと問題はないので、そのように田中先生にもお伝えください。
出版科にも私自身が激励の連絡をしますし、それに出版記念パーティだか何百万部記念だかのパーティの予算もさらに上乗せします。
あんなに出来の良い小せつ……ではなくてドキュメンタリー本を作って下さったお二人には厚く報いなければ……」
二人の真の関係を知っているだけに裕樹のでっち上げの心情部分が分かってしまったのだろうが、その点は暗黙の了解でスルーしてもらえるらしい。
それにオーク○での宴会がさらに予算が使えるという朗報には胸が躍った。
耳に携帯を当てたまま帰路についた、弾む気持ちのままいつもよりも早い足取りで。
何だか原稿が実際に出来たことでさらに幸せ色の泡がより一層の煌めきを宿して心の中で弾け続けているような気がして自然と唇が笑みの形を深く彩っているのも事実だろうが。
リアバタに拍車がかかってしまいまして、出来る時にしか更新出来ませんが倒れない程度には頑張りたいと思いますので何卒ご理解頂けますようにお願い致します。
【お詫び】
多分ですが、次回更新は土曜日になります。それまでは原稿書く時間がホントにないもので……。今日は奇跡的に更新可能な時間が空きましたが、明日はほぼ無理なので。
更新を気長にお待ち下さると幸いです。
本当に申し訳ありません。
【お詫び】
多分ですが、次回更新は土曜日になります。それまでは原稿書く時間がホントにないもので……。今日は奇跡的に更新可能な時間が空きましたが、明日はほぼ無理なので。
更新を気長にお待ち下さると幸いです。
本当に申し訳ありません。
こうやま みか拝