空気を読んだのか、それとも森技官の好みの男性を口説きたいと思っているのか謎だったけれども、最愛の人は先ほどの言葉に酔ったような感じで上の空といった風情だった。
 祐樹は別に深く追求する積りもないし。そういうことに過敏に反応するタイプの最愛の人の関心は森技官に全くないといった感じだったのも幸いだ。
「それでチャラになるのですか?どうぞ。秘密は守りますよ。お疲れ様でした。そして有難うございます」
 軽く頭を下げると森技官はいそいそといった感じでお手洗いの方へと消えて行った。
「ロイヤルサルートの21でございます」
 バーテンダーが先ほどよりも青く煌めいて見えるボトルと共に輝くグラスを二人分置いてくれた。
「さてと。目の保養と皆への義理も果たせたことだし、私も『グレイスの会』のメンバーと楽しくお喋りしてくることにするよ。馬に蹴られて死んでしまいたくないのでね」
 杉田弁護士は「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえ」との(ことわざ)だったか都都逸(どどいつ)だったかは忘れたけれどそう言いたいに違いない。
 というか、最愛の人はグレイスにそれほど来ていない。そして最後に来たのは凱旋帰国後の医局トラブルの日で、そのまま祐樹と大阪のホテルへと向かった時だ。
 それ以降、杉田弁護士から度々誘われていたのを祐樹が嫉妬心から断っていた。その杉田弁護士がライングループで呼びかけたのだから、最愛の人に再会したいと思っていたり伝説として聞いていたりした人達が満を持してこの店に集まって来ているのだから奢る人が水増しされているのは内緒にしておこう。
 相変わらず飄々(ひょうひょう)とした感じで席を立って「グレイスの会」とやらに合流しようとしている後ろ姿に一礼して最愛の人に向き直った。
「素敵な夜に乾杯」
 そう言ってグラスを合わせた。丸い氷がウイスキーの色を反射して琥珀色に煌めいている。そしてそれよりもなお鮮やかな笑みを見せる最愛の人の唇が満開の薔薇の花のようだった。
「うん。とても美味しい……」
 一口呑んだ最愛の人が安堵めいた溜め息を零している。
「出来れば、これから二人きりになりたいのですが、私の誘いを受けて下さいますか?貴方のことをもっと知りたいので……。出来れば密室で」
 この店は口説き禁止という珍しいルールが有るので、「出来れば」からは最愛の人の薄紅の耳朶(じだ)に唇を寄せて取って置きの甘く低い声で囁いた。薄紅の肌が一瞬のうちに紅を濃くしている。
「それは大歓迎だけれども……何時もの店には行かないのか?」
 律儀で几帳面な人は祐樹の「企み」を知っても(なお)この店を単なる待ち合わせかつ時間潰しの店だと考えているようで微笑ましい。
「カウンター割烹のお店、実はあの時間しか空いていないのを聞いて断りました。私としては一、第二の愛の巣とも言うべきホテルに行く。二、自宅に帰るという二択を用意しているのですが、どちらが良いですか?」
 バーデンさんが他のお客に気を取られているのを良いコトに質問してみた。
 ただ、祐樹もそして最愛の人もこの店のルールを破ったので出入り禁止になっても全く困らない。
 祐樹はこの店で一夜限りの恋人を見つける必要はこの先一生涯ないだろうし、最愛の人はそもそもこの店に来ることに抵抗があるようだったので。
 祐樹「が」綺麗な人「に」口説かれている現場を目撃した精神的(トラ)外傷(ウマ)が有るので尤もな反応だったのかも知れない。今は祐樹「を」そこまで好みでない人「が」口説いていたということを知っているだろうけれども。
「一が良いな」
 祐樹が適当にセレクトしたウイスキーのせいではないと思いたい、大輪の花のような紅に染まった頬と極上の笑みで答えてくれた。
「承りました。ではこのグラスを飲み干したら参りましょうか?」
 最愛の人はその言葉を聞いてグラスをしなやかな長く淡い薄紅の指で持って薄紅色の唇へと近づけている。
 丸い氷の煌めきが薄紅色の唇に反射して鮮やかさを増している。そしてコクリと呑んだ喉の滑らかな皮膚も薄紅色の艶やかさだ。
「あの、お会計(チェック)をお願いします」
 早く二人きりの密室に入りたい気持ちのままバーデンさんにキッパリと告げた。
「いえ、お会計は杉田様がお支払いをするとのことですけれども……?」
 いや、こういう展開になるように骨を折ってくれた功労者の一人にそんな負担は掛けられないと戸惑いながら振り返ると「グレイスの会」のメンバーと楽しく盛り上がっている杉田弁護士は中指を立ててエールらしきものを送ってくれた。アメリカでそのようなジェスチャーをすると「ケンカを売っている」と思われかねない危険な代物だけれども、ここは日本でそして最愛の人にあわよくばとの思いでお酒を奢った人達の心境を代弁していることも兼ねているジェスチャーかも知れない。因みに森技官はアルマーニのスーツに黒い髪といった普段の姿に戻っていて、野の花の風情の男性との会話が弾んでいるようでこちらには目もくれない。まあ、今夜の立役者なのでこのことは見なかったことにしよう。
 二人肩を並べて扉から出た。
 エレベーターホールで待つ間に最愛の人の方から指を深く絡めてくれる。ちなみにこのフロアには「グレイス」以外の店はないので人目についても大丈夫という判断の上なのだろう。
「あの初めての夜が終わってJRで帰ったことが有ったでしょう?あの時貴方から手を重ねて下さいましたよね?あの小さな意思表示、あれは一生忘れられない鮮やか過ぎる記憶です。あの時もとても嬉しかったですけれど、貴方と共に過ごす時間が過ぎていく中で、あの小さな仕草をするのがどれほどの大きな気持ちが込められているのかを知って感慨もひとしおでした」
 指の付け根まで絡めて強く握るとしなやかな肢体が若木のように撓った。そして薄紅色の素肌はより瑞々しい紅に染まっている。


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