「祐樹に話すと余計な心配を掛けるだろうし……。森技官に対する心証もグレーから真っ黒になるだろう。だから話せなかった……。実害というか、実際にどうこうされたわけでもないし……。もうそういう誘いは受けないと思うが、万が一受けたら祐樹に必ず言うので……」

 訥々(とつとつ)と話す最愛の人の心中(しんちゅう)は分かったけれども、聞いてしまえば心の中に大波が立ってしまうのは仕方ないことだろう。

「どうこうされたわけでもないのは良かったですが、貴方を浮気というか味見程度にしか思っていない、安い人間だと思われたのは非常に心外です!」

タクシーに乗って帰りましょうと言おうと思っていたが、運転手さんの耳を(はばか)って歩いて帰ることにした。それに怒りが沸々(ふつふつ)と湧いてくるのは――怒らないと約束した手前、最愛の人に気取られるわけにはいかないが――ある意味仕方のないことのようにも思えるし。

「ただ、森技官の場合は一応儀礼的に誘っていたというか、私が乗ったらラッキー程度にしか思っていなかったと思う。弱みを握られていたわけでもないし……。ああ、旅行の日程をずらすのは弱みと言えなくはないけれど、キチンとこちらも交渉を妥結させているので対等な関係だし……。結果オーライだから良かったものの、呉先生みたいに脅されたわけでも生活を脅かされるようなことが有ったわけでもないので。

……だから祐樹も忘れて欲しいなと思う」

最愛の人が切々と訴えているので取り敢えずは怒りの矛先を収めようと思った。「対等の関係」だから断ることが出来たというのは全くもってその通りだ。それに祐樹達の性的嗜好の持ち主は割と気軽に「そういう関係」になる奔放な人の割合が多いのも経験上知っている。

 最愛の人は一途(いちず)で健気だし、貞操観念は祐樹が知る誰よりも固い。しかし、精緻に整った外見も相俟(あいま)ってゲイバーでは声も掛かるし――祐樹がかつて行きつけにしていた「グレイス」にも彼を連れてきて欲しいと言う常連さんが多いのも知っている。絶対に連れて行きたくはなかったので、杉田弁護士経由で断りを入れているが――祐樹というれっきとした恋人が居ると知っている常連も「そういう目」で見ているのは明らかだ――その延長線上というか、森技官も最愛の人の本質を知らずに誘ったのだろうなとも思う。

「対等でなかったら、泣く泣く応じたのですか?」

 森技官のことはひとまず置いておくとして――口説いた過去はもう祐樹には変えることは不可能だし、最愛の人もキッパリと断ってくれたのでこれ以上追及しても今更だ――ただ、未来に起こりそうな事態でもあるので、そちらの(ほう)はきちんと釘を刺しておいたおくに越したことはないだろう。まあ、最愛の人がそうそう弱みを握られることもないし、対等の人間など祐樹の周りでは見当たらないが、上には上の人というのも存在することは充分に承知している。そのための牽制(けんせい)も兼ねて言い募った。

「まさか……。祐樹以外の人間にどうこうされるくらいなら死んだ方がマシだし、祐樹に愛想を尽かされると考えるだけでも魂が凍り付いてしまう気持ちがするので……。私が祐樹以外に『そういう』関係になることは絶対にないと誓っても良い」

 最愛の人の揺るぎない口調と熱を込めた話し方だと安心しても良さそうだ。ただ、最愛の人に関しては彼の良心や貞操観念を信頼しているのも事実だ。ただ、今回の事件(?)絡みで少し引っかかるような気がした。具体的に何がとまで断言出来ないのがもどかしい。

「貴方のことは信頼しています。間違っても私以外と『そういう』関係にはならないとは思っています。ただ、なんというか……。貴方の件以外で引っ掛かりを覚えるのです……」

 頭の奥底に存在する思いがどうしても出てこない自分に苛立ってしまう。

「うん?泣く泣く応じる――いや、私は絶対にしないと誓えるけれども――その辺りから祐樹の真剣な表情が微細に変化していたが……?」

 夜とはいえ、街灯や店の明かりや行き交う車のヘッドライトなどで辺りはかなり明るい。祐樹の表情を――しかも話題が話題なだけに――息を詰めるような感じで見ていた感じの最愛の人の目のほうが正しいのだろうなと苦笑してしまう。

 森技官の件はいずれ倍返しするということで心の隅へと追いやって、目下の調査だか捜査に気持ちを切り替えた。切り替えの早さも外科医としての適性なので、そういうのも得意だったし。

「泣く泣く応じる……ですか。西ケ花桃子さんなら泣くどころか喜んで応じそうですしね……。この件の関係者では、野上さんにその可能性がなくはないですけれど……。ただ、年齢が……」

 確か47歳だと森技官がくれた書類に書いてあったような気がする。西ケ花さんが37歳でそれに水商売で培われたらしい洗練された美しさは保っているけれども家政婦という職業ならばそういう努力もしていないだろう。

 ただ、妻以外にも愛人を囲うほどの精力家ならば他の女性にも目が行くし、数々の浮気程度はしていそうだ。その中に使用人も含まれているのかも知れない。その点は妻の佳代さんの居ないところで確かめる必要性を感じた。

 小説によると、昔の男性が性的興奮を催す順番は一番上が他人の人妻や恋人で二番目が下女や使用人、三番目が遊女や娼婦そして次に来るのが所謂(いわゆる)(めかけ)さんで最後は妻ということらしい。祐樹的には他人の恋人をどうこうする趣味はなかったし、使用人などもいないので全然ピンと来なかった(くだり)だったが、世の中の男性はきっと違うのだろう。この小説が正しければ、古風な言葉で言うお(めかけ)さんである西ケ花さんよりも野上さんの(ほう)が「手を出したい」と思ってしまうのかも知れない。

「今は47歳だろうが、彼女が長楽寺邸に来た時の年齢を確かめてから判断を下した(ほう)が良くはないか?」

 最愛の人の言う通りだった。何年前か何十年前なのかで話も(おの)ずから異なってくるだろうし。



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