最愛の人が実力至上主義のアメリカで巨額の財産を築いたことは知っている。具体的な数字は敢えて聞いていないけれども、祐樹が質問しないだけで、聞いたら多分教えてくれるだろう。
その世界ではお手頃なのか……。立っているステージが違い過ぎるような気がした。
ただ、最愛の人は住む場所――これも帰国時の忙しさのせいで長岡先生に全てを任せて現在のマンションに決まったらしい――以外は庶民的な生活をしている。
スーツなどが長岡先生も御用達のブランドなのは「教授職として恥じないように」という彼なりの配慮だし、一種の必要経費だろう。
「お手頃価格なのですか……?」
思わず心の声が漏れてしまっていて、少し恨めし気な口調になってしまっていた。しかし一度口に出したモノは取り返しがつかない。
「ゆ……祐樹。そういう意味ではなくて……。香港のオークションで4,200万円程度の落札価格だったという記事を読んだだけで……。
それよりも200万円安いから、お手頃なのではないかと思っただけで……」
若干混じっていた恨めしそうな口調を気取られてしまったのだろう。最愛の人が必死にフォローしようとしてくれている。
そういう健気さが大好きだ。
「ああ、そういう意味ですか。なるほど。二百万も安いとなると、確かに……」
エリートビジネスマンとか富裕層が読む雑誌の「外科医100選」とかの記事には必ず紹介される最愛の人は出版社から送られて来ていることも知っていた。
だから雑誌で読んだ知識を披露したに過ぎないのだろう、多分。
もう桁が違いすぎてむしろどうでも良くなってきた。祐樹がセンター長を務めるAiセンターにも億単位のMRIが有るが、あれはキチンと扱える医師や技師――もちろん祐樹も含めて――が居て、キチンと有効活用している。
しかし、長岡先生のバッグは無用の長物ではないかとも思えてくる。
「岩松も香港のオークションで落札したとかで……。『君が持つのに相応しいバッグだ』とか申しておりました。しかし、普通のバーキンならともかく、このお値段でしょう。同僚とかナースに見つかれば流石に宜しくないと思いまして」
仕事の延長線で会う岩松氏は如才ない常識人といった感じなのに、婚約者には殊更甘いのかもしれない。
「『高価な』バッグを持って出かける時にはハイヤーを使えば良いのでは?」
後部座席から怜悧な声が沈着に響いた。「高価」を強調したのは先ほど祐樹が恨めし気な声を出したフォローだろう、多分。
「ハイヤーですか?まあ、その手が有りましたわね。岩松は運転手を雇ったら良いと申しておりましたけれど、毎日のように車を使うわけではないので遠慮しましたの……」
タクシーとハイヤーの違いが良く分からない。
「ハイヤーだと百貨店の駐車場で何時間でも待ってくれますし、色々なお店を回る時も便利だと思いますよ。傘をさしかけてくれるなどのサービスも有りますので長岡先生にはお勧めだと思いますが」
そういうシステムなのかと納得した。タクシーは乗ってから料金が発生して下りる時に清算する。しかし、ハイヤーは多分、拘束時間などで料金が決まるのだろう。そして、長岡先生に運転させたらどうなるのかは明白なので絶対に止めて欲しい。
「スマホの着信音が鳴っていますが?」
音は長岡先生の四千万円のバックの中から聞こえる。
「あら、田中先生有難うございます。えっと、これってそうやって開けるのでしたっけ……」
開け方も知らない――この「ヒマラヤ」だかシベリアだかは初めて見たが、彼女は病院にも同じブランドの同じ形のバックはよく持って来ているのは知っていたし、素材が異なるだけで使い方は同じハズだ、多分――4千万円のバックって……と一瞬遠い目をしてしまった。やはり無用の長物だ……。
「教授のお心遣いはとても嬉しいのですが、普段はこんなにきっちりと閉めないので……」
……この4千万円のバックこそ街で見かけたことは多分ない。すれ違った女性がもしかしたら持っていたかも知れないけれども記憶に留める価値は少なくとも祐樹にはなかった。
ただ、女性の憧れの的のバックだということは知っていた。そして文字通り仰天の値段も。
ひったくりとか盗難のリスクを――こんなとんでもない値段のバックが買える人だと財布の中も潤沢だろうと考える悪人は絶対に存在すると予想は出来る――考えないのだなと唖然としてしまった。
「長岡先生、落ち着いてください。まず中央の丸い取っ手を回して、水平にして下さい。いや、場所は合っていますが、それでは垂直のままです」
コントみたいな会話だったが、二人ともこの上なく真面目なのが逆に可笑しい。
「水平ですか?……硬いです」
横目でチラリと窺うと長岡先生の何も塗っていない爪で――患者さんが見ない所持品については何も言わないが、最愛の人もイマドキの若い女性が良くしているキラキラしたネイルだとか長い爪などは注意するだろう。ちなみに医局のナースにそういう注意をするのは祐樹の役目だと思っている。まぁ、今のところは、そういう不心得者は居ないが――悪戦苦闘している。
信号が赤に変わったので、見かねて声を掛けた。
「スマホはこの際忘れましょう。着信履歴が残っているでしょうから折り返し掛ければ良いコトです。宜しければ貸して下さい。この丸い所を垂直から水平にすれば良いのですね?」
長岡先生がバッグを事も無げに渡してくれた。足の上に乗せたモノが四千万円か……と正直なところ少しビビる。決して臆病でもないのだが。
最愛の人と以前観たドラマの一場面が脳裏を過った。派遣の銀行員女性が借名口座、つまりは税務署に見つからないように偽名で作った口座で、銀行もグルになっているらしく公には出来ない口座から1億円だか2億円だかを横領して百万円の束をたくさんベッドに乗せた真ん中に横たわった美女女優が笑っているというシーンだったが、あちらの方にシンパシーを感じてしまう。もちろん違法だし、絶対にしないが。
「確かに硬いですね。女性にとっては。
これを回して、ああ成る程……中央に寄せているこのベルト部分をこうやって外せば……。そして金属部分からこう引っ張って……と、これで開くハズで……」
す」と言って金属部分ではなくて覆い的な役割を果たしているシベリアだかヒマラヤの革のパカっと開いた部分を見てしまった瞬間、心を無にした。
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