質問者の顔は見えないがアメリカ英語の彼は絶対に額に青筋を立てているか顔を真っ赤にしている語気の荒さだ。尤もそんな顔は見たくもないし、見る時間も勿体ない。
「人間の手というのは不思議なものなのです。ホチキスも広義では機械ですよね?狭義では道具ですが。
手作業で縫合を行った場合と道具で行った場合を比較すると術後の血流の良さでは格段に前者の方が勝ります。もちろん、同じミリ単位の正確な縫合という大前提ではありますが、ね。
再手術が必要になるのも圧倒的に後者ですよ」
全く冗談は言うことが出来ないのは残念だ。といっても、英語で韻は踏んでいたので所謂「ライム読み」という必要最低限は満たしていたが。
「田中先生の言う通りです!
残念ながら人体の不思議さは科学で全て立証されていませんね。
しかし、同じ縫合術を手作業で行った場合を100とした場合、ステープラーでは70というパフォーマンスの悪さだと『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』2023年5月号に載っていましたよ。
釈迦に説法でしょうけれども、根拠に基づく医療を推進している世界五大医学雑誌です。お読みになっていらっしゃらないのですか?」
森技官の声がシェイクスピア劇の主演俳優のように朗々と堂々と、静かな会場に響き渡った。
「えっ?読んでいるっ!読んでいるけどっ!」
何だか駄々っ子のような声が裏返っている。
「お読みになっていたら、何故質問されたのですか?道具よりも手技の方が優れているとエビデンス付きで証明されているというのに……」
大仰に呆れたという感じの森技官の声が会場内に失笑の嵐を巻き起こしている。
森技官が妬み交じりの野次をどうやら全部引き受けてくれるみたいだった。
祐樹も当然ながら「ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル」も読んでいたが、発行年月日をうっかり失念していて、必死に記憶を探っていた最中だったので、森技官の助け舟は本当に有難かった。
「セイブ術完了しました。次はバイバス術です」
祐樹がアナウンスをすると、会場から感嘆の声や盛大な拍手が起こった。
「まさに『チーム・セイブの栄光』いや『栄冠』ですかね、これから行うのは『冠動脈』バイパス術だけに」
スタンリー先生の冗談の方が祐樹よりも洗練されている。
「有難う御座います。ちなみに所要時間は?」
森技官の隣に座っている最愛の人はセイブ術が無事終了したと祐樹の言葉だけでなくモニターを見て判断したのだろう。
満月の光に照らされた白薔薇のような笑みを浮かべている。見詰めていたのは多分一秒くらいだが、彼も気付いたようで安堵したような眼差しと祐樹の視線が絡み合った。
最愛の人の十八番は心臓バイパス術なので、国内外から大学病院に患者さんが押し寄せてきている。
祐樹は研修医の頃から第一助手を務めていたし、その後執刀医としてもセイブ術よりも遥かに多くの手技をこなしてきたことを当然ながら彼も知っているので、安心したに違いない。
難易度としてもセイブ術の方が断然高かったので。
祐樹はまだ周囲がゆっくりと見える万能感に包まれている。
「田中先生が手技を始めて60分が経過したところですね。90分と仰った時には冗談かと思っていましたが……、いやその時間の67%で済ませてしまうとは……。
会場から野次が飛ばない、いや一人無鉄砲というか底なしのバカなアメリカ人がいましたが、あんなのは単に何でも文句を言いたいだけでしょう。
心ある外科医は皆、田中先生の大胆かつ繊細な手技に見惚れていたと思いますよ。
セイブ術も目新しい術式ですので、勉強になると思って目を皿のようにして見ていましたね。一つの取りこぼしもなく目に焼き付けようとして……」
スタンリー先生は麻酔医なので手技に一応集中していた祐樹とは異なって俯瞰的に見ていたのだろう。
60分で出来たのは周囲がゆっくりと見えるという幸運に恵まれたせいだろうけれども。
大学病院では最愛の人や祐樹は特例として専属の麻酔医が付いているが、普通は麻酔医一人が三手術を全て回している、手品のように。
医療過誤が起きないのが不思議だと思うほどの激務だ。
この国際公開手術は当然ながらスタンリー先生一人なので会場に目を配る余裕もあったのだろう。
「いえ、チームのお蔭です。優秀なスタッフに支えられてこその栄冠間際といった感じです」
スタンリー先生が心の底から可笑しそうに笑っている。
「胃大網動脈のグラフト完了です」
ミラー先生の声に今度は、左前下行技の閉塞した部分を跨いでバイパスを作る箇所を決めた。
「スタビライザーをお願いします」
バーキング看護師は相変わらず鶺鴒のような敏捷さと優雅さで手を翻してシリコンゴム製の器具を手渡してくれた。これを心臓に当てるとその部分だけは心臓の動きを止めることが出来る。
「おいっ!!人工心肺を何故使わないっ!!」
相変わらず勢いだけは一人前のアメリカ人が焦ったような声を張り上げている。祐樹が気の利いた冗談交じりの返答を頭の中で考えて口を開ける前に会場全体から失笑や冷笑という感じの笑い声が響いている。
「田中先生の手技の冴えをご覧になってまだそんな世迷いごとを!」
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チケットを見て自分が乗るべき車両を見ると赤色だった。
ロンドン行がその色で統一されているのか偶々なのかまでは調べていなかったが、自分が惹かれて止まない祐樹の太陽のオーラは赤色と黄色だ。
そして日本の百貨店で祐樹にと選んだバーバリーのスーツに合わせたネクタイは赤色で、何となく幸先の良さを感じてしまう。
きっと物事が良いように運んでいくような予感がした。こういうのは思い込みかも知れないし、何の科学的根拠もないけれども……。
弾む気持ちで乗車する。日本の新幹線とは標準仕様が異なるのだろう。西洋人は押しなべて身長も高いのでシートもそれに合わせて新幹線よりも広い印象だ。
例の麻袋やスーツケースなど荷物を整理してから座席に座って落ち着くとしばらくすると滑らかに発車した。
車窓を眺めてはいたが、景色よりも気になることがあって物思いに耽ってしまう。
2時間47分後に祐樹の居るロンドンに着くのだと思うと弾むような気持ちと、そして、祐樹の前で億が一を案ずる気持ちが表情に出はしないかという心配が鬩ぎあっている。
祐樹は物凄く目敏いので二人きりになった時に自分が不安そうな表情を浮かべていればきっと気付くだろう。
むしろ、これまで気取られなかったのが奇跡みたいなものだと思っている。
祐樹自身が術者に選ばれたという高揚感というか、普段とは違った心理状態になっていてくれているのが幸いだった。
もういっそのこと自分が術者だった方が良いというワガママかつ現実的には不可能な気持ちが発作的に胸と頭をいっぱいにしているような気がして……、揺れの少ない車内なのに酔いそうだ。
といっても平衡感覚を司る耳の奥の三半規管は至って正常なので精神的な要因だろう。
カバンの中に入っている呉先生から分けて貰っている薬の袋を取り出した。。
なるべく眠くならないで平常心を保つにはどの薬が最適なのかを吟味する。ただ、祐樹は精神的に不安定な人間に苦手意識とか嫌悪感を抱いている。
だからメンタルヘルスの薬を服用しているというだけで減点をされそうな気もした。
過剰摂取で呂律が回らないなど論外で、そこまでする積もりはなかったが。
薬は用量を守るというのは大前提でそれ以上服用する人間が存在するということは知識としては知っていたけれども、そんな馬鹿なことをする気持ちは全くない。
「二倍飲めば二倍効くと信じている人が居るんですよ。文系の人の考え方なのですかね」
呉先生が淡く苦い笑みを浮かべて言っていたが、その非科学的な思考が理解出来なかった。
なまじ薬学を齧っていたからかも知れない。
ただ、祐樹に億が一の不安を抱いていると気取られず、かつメンタルヘルス系の薬に頼っていることも知られたくないなと思ってしまう。
自分が、億が一とはいえ不安を抱いていることを祐樹に悟られてしまったら……。
外科医としてのキャリアが長い自分なだけに、そして一度は指導医を務めたことがある身の上も相俟って、自分が祐樹の手技の腕全てに信頼を置いていないと判断されかねない。それは避けたい事態だ。
また、上司ではなくて恋人という立場としては祐樹が精神的に不安定な人を嫌っている以上、薬を服用していることも隠したい。
生涯に亘るパートナーの誓いが軽々に反故にされることはないだろうとは思う。
しかし、祐樹の愛情の減点がどの程度になるのかは自分には分からない。
出来るだけ露見しないように努めた方が良いだろう。少なくとも手術がつつがなく終わって、呉先生と合流するまでは少なくとも隠しておきたい。
祐樹も呉先生が優れた精神科医だと認識しているので自分の口で説明するよりも、呉先生の言葉に重きを置くだろうから。
小さな錠剤を選んで水なしで嚥下した。少しでも不安を取り除きたくて。
車内のアナウンスが最初にフランス語、そして英語だったのが、トンネルに入ったかと思うと順番が逆になる。
ユーロスターがイギリス領に入ったのだろう。
もう直ぐ祐樹に会うことが出来ると思うと純粋に嬉しい。嬉しいけれども、祐樹に隠し事をして露見したらどうしようかという不安で熱くなった心に冷や水を浴びたような複雑な心境だった。
LINEの通知が来たのでいそいそとスマートフォンを取り出す。
祐樹が「ロンドンに着いた」とか「ホテルに到着した」とかの文面を送ってきてくれたのかと思って。普段はそういう実況中継をしない祐樹だけれども、自分が日本に居ると思い込んでいるので画像を送ってくれたのかも知れないなと。
画面を見て若干テンションが下がった。呉先生からだったので。
「学会の発表はとても上手く行きました!!質疑応答も教授とのレッスンのお蔭でフランス語訛りの英語のリスニングも完璧でした!!本当に有難う御座います!!」
それは良かったなと淡い笑みを浮かべた。
「パリ大学の学会発表成功おめでとうございます。反応はいかがでしたか?」
国内の学会で呉先生が高く評価されているのは知っている。
しかし、海外となるとハードルは高くなるのも自明の理だ。
大学病院では呉先生と怒鳴り合いの大喧嘩をして犬猿の仲の真殿教授が精神科を仕切っているのも事実だ。
しかし、国際学会での講師を依頼されるレベルとなると大学病院広しといえども今までは救急救命室の北教授しか居なかった。
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◇お詫びとお知らせ◇
更新が滞って申し訳ございません。実は弟の会社にも勤めることになりまして、仕事がある時だけ出社します。早速クライアントへの挨拶と営業に行く予定です。
その準備で時間が取られてしまっております。
名刺入れ、間違えないようにもう一個買います。
更新は(出来るだけ)頑張りますが、一日一話が精一杯の日もあると思います。最悪疲れ果ててナシという日も有るかと思います。
楽しみにして下さっている読者様には申し訳なく思いますが、ご寛恕とご理解賜りますようお願い申し上げます。
こうやまみか拝
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「その通りです。これ以上肥大が進行しないためにも壁を作る必要が有るのです。
肥大を防ぐために網目状に編んだフィラメント糸を被せる術式も有りますが……?」
依然として祐樹の目は周りのあらゆるものがゆっくりと進行していくように見える。そして、何でも出来るような万能感も抱いている。
妬み交じりの野次が飛んで来ないのを良いことにミラー医師への指導を続けた。もちろん指は動かしたままだ。
目が覚めるほど卓越した開胸術や、第一助手として精緻で適切なアシストからもミラー先生がそう遠くない未来の術者になるだろうと判断して。
「……それだと、フィラメント網が支えきれないほどに再び肥大した時に再手術の必要性がありますよね?」
ミラー先生が目を輝かせて祐樹を見ている。
「素晴らしい回答です!釈迦に説法です……が?」
ミラー先生が首を傾げている。
どうやら森技官が野次に応えて日本文化とか仏教や神道のレクチャーをしていたのを聞く余裕がなかったらしい。
祐樹は道具類のサイズの把握に手間取った分、ミラー先生が開胸術を披露していたせいもあって。
「日本語の言い回しでした、すみません。つまり、既にご存知なので今更言うまでもない、無駄なことと言うほどの意味です。
手術は敢えて乱暴な言葉を使うと人工的に怪我を負わせることですよね。
同じ場所を三回以上切ることは出来ないです。そして、怪我も小さい方が好ましいです。
再手術を行うよりも一回きりで終わった方が患者さんの負担も少ないです。
私はなるべく低侵襲で最大の効果を上げることを考えて手術をしています。といっても敬愛する、そして唯一無二の上司の受け売りなのですが……」
両手をリズミカルに動かしながら肩を竦めた。最愛の人がそう言っていたし、目の覚めるような鮮やかな手技で有言実行している様子は何百回も見てきた。
「なるほど、勉強になります。
だから田中先生は術野が狭くなることを覚悟の上で小さく開胸なさったのですね……。ストンと腑に落ちました。
ドイツとアメリカではもっと大きく切開します。要は高侵襲ですよね。
患者さんの身体上の負担よりも外科医の勝手な都合を押し付けていたということですよね……」
ミラー医師が感心したように、そして尊敬めいた眼差しを送ってきた。
ミラーという名前はドイツ人に多いと祐樹は勝手に思っていたのだけれども、どうやら合っていたらしい。
ドイツで学んでアメリカに渡ったのだろう。最愛の人も医師としてのスタートはアメリカだ。
そして先ほどの月光を浴びた氷の彫刻のような雰囲気を纏っていた最愛の人の様子から、アメリカとイギリスは同じ大きさの医療用具が使われていて、祐樹のように微調整の必要がなかったと考えるのが妥当だ。
「終了です。パッチを」
バーキング看護師が俊敏な動作で楕円形のパッチを祐樹に渡してくれた。これで祐樹が作った壁を補強出来る。
パッチを嵌め込んで前壁中隔を小さくするように心掛けながら縫い合わせる。セイブ術は確か14回行ったことがあるが、この縫合の過程が最も好きだ。
心臓は元々ラグビーのボールのような形をしている。この患者さんの肥大した心臓をラグビーボールの形に整えていく作業は何だか芸術家のような気分にさせてくれるので。
15回目の手技は祐樹自身が驚くほど指が的確かつ軽やかに動いてくれる。
「……外科手術用のステープラーを何故使わないんだ?そっちの方が正確だし早いんじゃないか?」
野次というよりも何だかおずおずとした質問が飛んだ。
「確かに正確ですし、早いですね。
しかし、モニターだと鮮明に映っていても定規は備え付けていないハズです。
定規がもし有れば、ミリ単位で正確に縫合していることが皆様にもお分かりになると思いますよ」
明るい声で返した。
「残念ながら定規はないですね!次回からは定規もモニターに添えるようにと主催者にクレームを入れます!」
キングスイングリッシュのお手本のような助け舟で会場が笑いに包まれた。
「今のうちに胃大網動脈摘出をお願いできますか?」
ミラー先生ならば大丈夫だ。
「了解です。チーム・セイブは成功したも同然ですから。まさに『チーム・セイブの栄光』ですね」
バイパス術と比較するとセイブ術の方が成功率は低いというのは心臓外科医ならば常識だ。
スタンリー先生の麻酔医としての腕の良さも相俟って患者さんのバイタルも安定している。
「いやっ!!ちまちまと手で縫合するよりも、ステープラーでサクサク行った方が良いんじゃないか?」
祐樹もそうだが、外科医には勝気な人間が多い。先ほどと同じ声が飛んできた。
「ステープラーが悪いとは申しません。
特に手先の器用さに自信がない外科医だと指に頼らず道具に依存する気持ちは分かりますよ!」
別に喧嘩を売っている積もりはないが、ユーモアを交えて返すというセオリーには反しているような気がした。
そう反省はしながらも手を休めずに言葉を返した。
「依存だとっ!失礼なっ!!手技はちゃんと磨いているっ!!!
磨いた上で、ステープラーの正確さと早さを選択しただけだっ!!田中先生は質問に答えずに論点ずらしをしているっ!!
実に遺憾だっ!!質問に答えるのが術者の義務だろうっ!!それとも答えることが出来ないのかいっ??」
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